2015年10月9日金曜日

ヨブ記を読み始めて

通読でエステル記を終え、今ヨブ記を読み始めている。良きにつけ悪しきにつけヨブの言葉は真実であろう。しかし、三人の友の言葉はヨブにとっては益とはならない。それはヨブの立場に立って語っているのではなく、自分の立場からしか語っていないからである。知識や経験は大切であるしそれがその人を形造っていることにもなる。だからその人なりの姿が映し出される。
john: 9:41
イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたにはなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたのは残るのです。」
前にも書いたが「知る=見える」となるとその結論は推して知るべしであろう。
注解書つき聖書の注解欄に、エリファズは教条主義者、ビルダテが建前主義者、ツォファルは感情露出型であると書いている。うまく言い当てている。これはキリスト者の姿でもあるかもしれない。彼らはある面で正しいがヨブを生かすことも慰めることもできない。なぜならヨブの真実を知らないで外面だけを見て判断しているからである。私たちは見える所でしか判断することができない。これが人間の限界なのであろう。
1sam:16: 7
しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」