2015年10月9日金曜日

最近のこと

八ヶ岳の上の方は茶色くなっているが近くの山々はまだ濃い緑で覆われている。これが紅葉となるとだいぶ寒くなっているということだろう。あの暑かった夏はどこへ行ったのかと思うほど日が差してもそれほどでもなく布団を干すのに遅くそして早く取り込まないと冷たくなってしまう。最低外気温は予報で10℃を切っているが朝晩は12,3℃かそれに近い、今朝は上に羽織っても寒かった。部屋の温度も15℃を切りつつありシャツの上に何かを羽織らないと寒くなってきた。

昨日、先月末からパスしていた速歩を今朝のゴミ出しのついでにそのまま歩いたが手が冷たくなって手をこすりこすり歩きながらいつも備えなしでその場に行って気がつくという性格が出てしまった。成り行き任せの人生は備えをするとか考えるということが苦手である。死後の備えは完璧だからこれだけしっかりやっていればいいかと考えている(私ではなく主がなさっているのだが)。信仰云々と問われれば低い山から高い山を眺めれば仰ぎ見るしかできないが八ヶ岳連峰を遠くから見ればどの山も似たようなものである。主のわざに参画できることは感謝こそすれ誇るものではない。出来ないからといって卑下したり、蔑むものでもない。自虐的に自分を慰める。

久しぶりの速歩なのでふくらはぎがすぐ痛くなったがそのまま歩いたら痛みも消えていった。これがはじめての速歩だと痛みは増すばかりだったかもしれない。いつもの器具でストレッチをやって屈伸をしたら手を握りこぶしにしても簡単に地面についた。普段はやっと手の先がつくという状態である。筋肉は鍛えないとどんどん衰える。信仰もそうかもしれない。苦手なものは避けやすいから集会などで奉仕をしている人は幸いだ。信仰のストレッチをやっているようなもの、性格上引く方だから今の小さな集会にいるということは苦手なメッセもしないといけないので感謝すべきことかもしれないがいつでもどこでも楽な方を選択しま~す。しかし、主がそうさせてくれないその時は感謝します。

先月の中頃からか甥っ子が茅野にある義姉の家の庭の切る木を選定してくれたのでそれを切るために通っていた。太いのだと直径20センチはあるから結構しんどい。それをまた7、80センチ位に切っている。選定は彼らに任せてもっぱら太い木を切るのに専念している。それと石垣の隙間に生えている雑草を取るのに一苦労した。裏の方も草も木も伸び放題でばっさばっさと切ってさっぱりする。ここでも良貨は悪貨を駆逐するではないが雑木なる木はどんどん繁殖して育ってほしいのが日陰になって育たないから切ってみると歴然としている。裏は裏の畑の持ち主か大きくはみ出していた木を切ってそのままになっていたのを同じように短く切って裏の方もすっきりした。まだまだ通わないといけないが何とか一段落した感がある。そんなこんなでブログも休んでいた。

義姉はケアハウスに入居してここには戻らない。売るにしても誰かが住むにしても別に本人がいないのだからやる必要がないかなと思うがやれるところはということでやり始めた。大きい石を積み上げた石垣、広い庭と築山、家は広く、部屋数は少ないが個々の部屋が広い。色々凝っているがどこか中途半端、ダニエルが見たl幻の像を思い出した。感嘆するところもあればえーというところもある。家内のすぐ上の姉はくれれば貰うと言っていたが貧乏人がこんなの貰っても維持費を思うと二の足を踏んでしまう。売るにしても査定はお金をかけた五分の一にもならない。だから本人は売る気はないようだ。姉の家を見て、家とはそこに住む人の生き様を現しているなぁとつくづく思う。
色々とまでは行かないが考えさせられ、体を動かす機会にもなっている。