2015年11月18日水曜日

文明の衝突

少し静かになったなぁと思ったら痛ましいテロ事件が起きてしまった。紛争地域ではなくフランスのパリでの話、衝撃は大きい。フランスは自由に物が言い、そして書くことも自由らしい。たとえそれがある人たちから反感を買うようなことであってもである。ある種の許容さがあるのだろう。ここに至るまでには色々な出来事がありその経験から生み出されて今日があるように思う。それは血で血を争うようなことも少なくなかっただろうと思う。詳しく歴史を知らないしそれほど興味もないが。長い歴史の中に培われたものであってもそれはフランスで通用するもの外国では通用するとは限らない。独自の文化、歴史はその国を創り上げていくかもしれないがそれはその国だけのものである。グローバル化した世界に置いて他国との関係の中により密接にかかわって生きていかなければならない。そうなると他国の文化や宗教に関して無関心ではいられない。そこに配慮が必要であろう。アメリカは黒人を奴隷として扱っていた時代には黒人を奴隷として扱って誰にも文句は言われなかったと思う。しかし、今はそのようなことをすれば非難の的となる。たとえ貧しい黒人であってもである。

私たちが学ぶことは個人であれ国であれ失敗から学んでいることの方がはるかに多いと思う。それが先進国と言われている国がそれを先に学んでいたからに過ぎない。テロを赦すつもりはないが人が国が学ぶには多くの血が流されなければならないという現実がある。欧米は過去形でも中東、アフリカは現在進行形に過ぎないだけである。中東での争いはある意味で欧米の横暴があったから今日があると思っている。人、人格を大切にする欧米人であれば中東、アフリカ、アジアの人たちに接する時は自ずからどうすればよいかわかっているはずである。強欲がそれを妨げていた。むさぼってはならないと言われながらむさぼり富を収奪してその結果がこれであろうと思っている。少し前はポルポトが多くの国民を殺した。そして今は中東でアフリカで行われている。罪は「お話しください。しもべは聞いております」とは言えない。多くの理由をつけてあらゆるものを正当化する。

もう20年近く前に出版されたサミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」を思い出した。本の帯には「西欧VSイスラム」とある。今この現実を目の前にしている。避けて通れない現実である。富の収奪の前に人はスポイルされる。イエス様は富よりも人を大切にした。この姿勢がない限りこの世の中は血で血で争うことが続くであろう。解決は主よ来てくださいと祈るしかないのかもしれない。