2015年12月6日日曜日

運命の足音

役場に用があって出かけたついでに予約していた本が入ったので図書館に寄り、受け取って行こうとしたら係りの方がPCの画面を尚も見ていて、おもむろにたって貸しコーナーから一冊の本を取り出して渡してくれた。何かなと思ったらひと月位前に予約した本を忙しくて取りに行けなくて一週間以内に取りに来なかったら返却するとの規定があったのでとっくに返却されたと思っていた本がそのまま残っていた。付箋の返却日の日付は既に半月程過ぎている。係りの方は「いつまでに返却を」と言うのだが言いようがないのか黙って渡してくれた。折角と思い急いで読んで返したがこの本の題名が上記なのである。

これは五木寛之(敬称略)の自伝的なエッセーとでも言えるものだろうか。五木寛之の本は読んだことがなく知っているといえば写真などで長髪の横顔、このくらいの知識しかない。12歳の時に終戦になり、その時は北朝鮮のピョンヤンだった。そこで病気のお母さんを亡くしている。ソ連兵の暴虐ぶりはよく聞くし実際体験した方のお話しを聞いたことがあった。具体的には書いてないがお母さんもその被害にあったみたいだ。12歳の少年が受けた衝撃は計り知れない。どこか暗い印象を受けるのはこのような実体験があったからかなと思ってしまった。私も5歳時に戦争は終わったが片田舎で育った者としてもその経験は今も引きずっていることを思うと彼の衝撃はいかばかりかと思う。何カ所かにお母さんのことばとして「いいのよ」と言っていることが書かれている。読んでいると素敵なお母さんのようである。本の冒頭に「先日、私の郷里の福岡から一枚の写真が送られてきた。差出人は私の知らない御婦人だった。その写真には、白い帽子をかぶった若い女性の姿が映っていた」。母親の小学校の教え子の一人のようで母親の人柄が書かれてあったそうだが「私は半世紀以上かかって、ようやく母親のことを思い出さずにすむようになってきていたのだ」。…「私の57年の心の中の努力は一瞬にして崩れ去ってしまったのだ。『いまごろこんなものを送りつけてくるなんて!』と私の裸の心は叫んでいた。未知のご婦人の善意からの贈りものとわかっていていても、私は相手がうらめしかった。」とその衝撃が伝わってくる。善人の善意の恐ろしさを殺人者より怖いとあらためて思わされる。

読み進むうちの彼の宗教観人生観が仏教に根ざしているのではないだろうかこれは日本人そのものであるような気がする。キリスト教とは相いれないものでありながら日本人として共観するものもある。そして日本人の思想は一軒の家に神棚と仏壇があるように思想的にも矛盾したものがあるような気がする。それが私の信仰のあいまいさと生み出しているのかもしれない。それは聖書が語っていることを伝えるなかでこの日本人を支えている思想を理解したうえで福音を伝えることが大切であることを教えられる。