2015年12月25日金曜日

この日を主とともに


今日はクリスマス、デボーションに使っている「この日を主とともに」の内容がよかったのでブラインドタッチの練習を兼ねてここに転載いたします。

1tim 3:16
確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」
 奥義(ミステリー)とは偉大なものです。それは、不可解(ミステリアス)だからではなく、驚くべきものだからです。ここでいう奥義とは、神が肉体をとって現れてくださった、という驚嘆すべき真理のことを言っています。
 それは、永遠に存在する方が、時間に制約される世界に生まれたことを意味します。時間を超越した方が、暦と時計を用いなければならない領域に来て、住んでくださったのです。
 偏在し、同時にすべての場所に存在される方が、ベツレヘム、ナザレ、カペナウム、そして、エルサレムという、単一の場所にしか居ることのできない制約を受けられたのです。
 天と地に満ちる偉大な神が、人体の中にご自身を押し込めてくださった・・・考えるだに、素晴らしいことです。人々は、イエスを見て、まさしくこう言うことができました。「この方のうちにこそ、神の満ち満ちた神の徳が、形をとって宿っており…」(コロサイ2:9参照)。
 この奥義は、創造主が地球というこの取るに足りない惑星を訪れてくださったことを教えています。地球を除いた宇宙と比べるなら、地球は宇宙の埃のようなものに過ぎません。ところが、他のすべての天体を見向きもせず、創造主は、ここに来てくださったのです。天の宮殿から家畜小屋、そして、飼い葉桶へと。
 全能なる御方が、無力な赤ん坊になってくださいました。マリヤが両腕に抱くとその御方こそが、マリヤを支えている御方であったといっても、まったく誇張にはなりません。神は、世界を造られただけではなく、世界を支えている御方でもあるからです。
 全能なる御方は、すべての知恵と知識の源泉です。ところが聖書を見ると、〈子ども〉となられた主が、知恵と知識において成長していった、と書かれています。所有権のある方が、ご自分の国に来られたのに歓迎されなかった、というのは信じがたい事実です。宿屋には、主をお迎えする余地がありませんでした。世は、この方を知りませんでした。ご自分のところに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかったのです。
 主人である方が、しもべとして世に来てくださいました。栄光に主が、その栄光を肉体というヴェールに隠されました。〈いのち〉の主である方が、〈死ぬ〉ためにこの世にやって来られました。聖なる御方が、罪の「密林」にやって来られました。無限の高みにおられた方が、親密な近さにまで来てくださいました。御父の喜びの対象であり、御使いの礼拝の対象である方が空腹になり、喉の渇きと疲れを覚えて、ヤコブの井戸にたたずみ、ガリラヤ湖に浮かぶ舟で眠り、ご自分の手で造った世を、家なきよそ者としてさ迷ったのです。キリストは、栄華を離れて枕するところもない窮乏の中へ来てくださいました。大工として、働きました。布団の上に寝たことは一度としてなく、栓をひねるだけでお湯、または、冷水が出てくるというような、現代人が当然と思う便利さとは無縁でした。

  このすべてはあなたのため、そして、私のためだった
  さあ、来れ、この方を讃えようではないか。