2015年12月26日土曜日

貧しさということ

2cor: 8: 9
あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。


もう戦後ではなくなった所為か「昔は貧しかった」という言葉を聞かなくなった。私は、あの当時は勿論のこと今も「貧しさ」は過去形でなく現在進行形である。若いころに文兄が韓国の兄弟を連れて何度か訪問されたことがあった。失礼な言い方かもしれないがその時はみなさんは「豊」とは言えないような感じを受けた。勿論、貧しいということではない。何年か10がつくか忘れたがあるときからソウルから韓国の兄弟たちが来るようになった。転勤であるいは交わりでと彼らは世界的な企業に努めて、企業人としても信仰者としても優れた人たちだった。そして宣教の働きに置いても然りである。都会と地方?のギャップを感じるようだった。文兄が連れてきた兄弟たちはそれほど目立つわけでもなく、みことばの証しもそれほど深いものではなかった。信仰の質に於いて違うのかといったら違っていなかったと思う。しかし、受ける印象は大分違うのを感じた。

ある意味で能力を持った信者がそれを宣教に転化した時にそれなりの働きを目にすることができるのではないかなと思った。ある意味で効率の良い宣教をしているといったらいいだろうか。一見信仰的に見えるけれど実はこの世のセオリーを用いているのに過ぎないような気がする。そこにはキリストの貧しさというものは見えない。だからといって批判しているわけではない。ただキリストの貧しさを体験するということはそう簡単なことではないということである。というより難しいことであると言える。ある意味で主が貧しくなられたということは主だからできたことで我々には不可能に近いことなのかもしれない。