2015年12月9日水曜日

絶歌

この本が出版されるにあたって色々論議されていたから図書館では扱わないかなと思って検索したら二つの図書館で扱っていることを知り予約してこの間ようやく手にすることができた。予約待ち17で半年かかった。話題の新刊本はこんなものであろう。

読み始めて早々に違和感を覚える。30歳そこそこの若者がこれだけのものが書けるのか?もしかしてゴーストライターが?と思ってしまった。それは文章が若者らしくなく、たとえを用いての形容の言葉が熟年か編集者がいて書いているかのように思わされた。そしてあれだけのおぞましい事件を起こしていながら何か小説を読むように書かれているようで気になった。当事者ではなく第三者のようにそこに鎮魂の思いは皆無であるように思いた。

時折フラッシュバックのように昔の失敗したことや傷になっていることが思い出さされてて嫌な思いをすることがある。人から見れば些細なことであろうが本人は思い出したくもないことである。それがあのようなおぞましいことをして生きるということはある面でつらいだろうなと思う。最初の方に「僕にとっての救いは『死刑』だけだった。」と書いている。何となくわかる。

一部と二部に分かれていて一部は逮捕前後と生い立ちから少年院に送られるまで、二部は2004年3月から社会復帰のための仮退院から2015年の春まで書かれている。そして最後に「被害者のご家族の皆様へ」とある。

祖母の死から変わっていったようでそして祖母の愛犬サスケが死んだこともそれに輪をかけたようである。その愛犬の餌を食べにくる野良猫に怒りを発してむごい殺し方をするようになり、ナメク解剖するようになってそれが人にと移っていって二人を殺してしまった。それと前後して性的なものへと目覚めていったようである。でもそんなことで変わっていくものだろうか何か病的なものが死をきっかけにして表に出たのであろうか。

二部は11年間の社会復帰の軌跡である。「書く」ということに目覚めて?書き出したのがこの本のようである。院時代から本をよく読んでいたようであり「書く」ことがその帰結かもしれない。その所為かうがった見方かもしれないが自分の文章に酔っているところもあるかなと…。小心者のサルは生きるのがつらくなるときがある。彼にとって「生きる」とはとてもつらいものではないだろうか何か理由を見出して生きなければならない。そして生き続けなければならない。重いテーマだが文章から言葉として描かれていても文面からそれを見出すのは難しい気がする。本にするということは彼にとっては自分というものを整理することができるかもしれないが五木寛之ではないが遺族にとってはおぞましいことをまた思い出させる結果になったのではと思うと何とも言えない気持ちにさせられる一冊であった。