2015年12月9日水曜日

ヨハネ伝9章に思う



john 9: 1-2
またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」

珍しくヨハネ伝9章全体が一人の盲人を中心にして書かれている。色々な立場の人の論評が面白い。まず弟子たち、彼らにとって盲人であることがどれだけ大変かという視点はなくて誰が神の前に罪を犯したのかとの結果を知りたかった。知って知識として蓄えるためであろうか。盲人がどうなるかとの視点が欠落している。私たちもことの善悪を求めてもその人を生かす道を求めないきらいがある。

john 9: 3
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。
イエス様はご自分の栄光を現そうとされたのではなく父の栄光を現そうとされた。そして盲人を生かすことを罪は「私」が中心であるがイエス様は罪のない故それをする必要がなかったとも言える。

john 9: 7
「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
単純な信仰である。幼児サムエルが「主よ、お話しください。しもべは聞いております」に通じる思いがする。疑い深い私にはできない言葉である。

john 9:14
ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。
イエス様は問題提起をするように物議を醸しだすようなことをやる。罪は弟子たちと同じで本質でないことで右往左往する。私たちは何が本質か本質でないかを時々取り違えていることがあるような気がする。イエス様は「わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです」と言われた。罪は裁きが先に来て救いは後に来る。

john 9:34
彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。
イエス様が「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」の言葉を思い出す。どのような人からでも聴くという謙虚さは必要であろう。

john 9:41
イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」
「見える」、「知っている」というところに罪が残る。神に最も近い者であると自負する彼らではあったがしかし神から最も遠い存在であった。皮肉なものである。現代のパリサイ人、律法学者は誰か…。