2016年1月6日水曜日

新しい年を迎えて

もう今日は6日、いつも社会人と箱根駅伝を観て、他は何もしないうちに正月は終わってしまうのだが今年はそれも無しであっというまである。今年ものんびりと寝正月と決め込んでいたのだがのんびりもできず高期高齢者となってスローライフを目指していたのだが年末から崩れそうな塩梅である。

年末30日に甥っ子が帰省していたので義妹と一緒に「貰ったカニがあるから鍋をやろう」と始めたが終わったのは朝も明けようとしている4時半、義妹が一番よくしゃべったが割と無口な甥っ子もよくしゃべり私たちはどちらかというと聞き役、二三回あくびをしたがそれほど眠いとは思わずずれ込んで大晦日を迎える。それほどの準備をするわけではないので割とのんびりと夕方近くに家内と義姉は夕食の準備のためにスーパーへ、昨年から食事は一緒で紅白が始まる前に食べ終わるという設定になっている。今年も然りで家内と義妹はそのままTVを私は紅白には興味がないのでひとりパソコンで韓流ドラマのDVDを観て年越しして2時頃床に就いた。韓流ドラマは卒業したはずなのに卒業できなくて今も続いている。DVDも観終え、残るはGyaOの「天地人」を残すのみ、これで完全に卒業の予定である。予定は未定でもあるのでどうなるか「?」がつくが多分大丈夫であろう。

元日は遅い朝食を用意しているうちに息子たちが来る。二日の午後に家の近くの貸衣装屋?で昨年生まれた孫と両方の親と記念写真を撮る予定に、大晦日遅くに来て、嫁と孫は実家に息子は我が家にとのことだった。ところが夜に「今、有賀、こちらの親が泊まっていけというので泊まる」と電話があり、二日には嫁と孫は会うので来るのは息子だけかなと思っていたらみんなで来て、元旦のお雑煮も作りかけ中で朝食はパス、息子たちは孫を置いて近くのスーパーへ買い物、鍋をつついて昼食をとり雑談していたら義妹が義姉たちを呼んでいるのでみんなでお茶をと誘ってくれて二階で雑談、賑やかな一時を過ごす。息子一人ならほっとけばいいのだが嫁もとなると何も用意していないので義妹の好意に感謝した。寝正月ものんびりしていいけれどこうやって賑やかにやるのもいいし正月らしい。来年はみんなで集まって賑やかに行くことに決めた。

三日は公共施設が休みなので義妹の二階でパン裂きを行い。いつもは12時でハイさようならとなるのだが弁当を買ってきて4時頃まで交わる。公共施設を借りて行うのは楽でいいが時間の制約があり、管理や経費に煩わせられるが狭くても自分たちの集会をと個人的には祈っている。自分のところもと思っているが食事するにはいいが少し狭い。これからの課題でもある。人が先か物が先かと問われそうだがその前に信仰が先であろう。肝心の信仰がと「?」をつけたくなる。

暮れから少し聖書の勉強をと小海キリスト教会に水草牧師のブログから「神を愛するための神学講座」なるものをパソコンに入れているので読みながらメモでまとめている。覚える機能が衰えて(元々かな)覚えられないがまとめるということと書くということは始めると面倒だが使っていない頭を使い、書くことのない字を書いているで字を覚えることも出来る。体と同じで使わないと衰えるのみ、それに少しでも抗う思いもある。

ここで最初に目についたのが「神を知ることと、神を愛すること」は別であることをそして今まで神を知ることを求めていたのではと思い知らされた。何もない者が「何かを知る」、「何かを得る」ということは大きな誘惑である。そしてそれは誇りになることを教えられている。神を愛して初めて神を知ることを求めるべきなのに逆のことをやっていることに気づかされている。大きな祝福である。ただどこまで実行できるか否実行できるか今年の課題かもしれない。遠くの神を愛することは簡単だが身近な人を愛することは難しい。どんな答えを得ることができるか…。今年は色々な形で旅たちの年になりそうだ。天国も近くなったし…。