2016年1月8日金曜日

信仰によって

「どこかで泉が湧くように」という後藤敏夫さんのブログをお気に入りに入れて読ませてもらっている。12月12日のブログにこのようなことを書かれていた。一部分であるがそのまま引用させてもらう。

 「・・・ひとりの生活者として、妻とともに惠泉塾に根づくことを学びながら、私は、ある種の『他郷感覚』をもってここで生きています。惠泉塾に生きることに親情的な所属意識による安定や安心はありません。ここはただ『信仰によって』という一点において結びつき、また存在しています。私は、『地上では旅人であり寄留者である』ということが、信仰者本来の存在感覚であることを、ここにいてより鮮明に覚えるようになりました。定住しているここは定住の場ではなく、根づくべきここは根づいてはならない地でもあります。活き活きとした不安と明らかな希望をもって前のめりに歩まざるを得ません。」

恵泉熟とは
ここは人生の「港」です
 外洋の荒波に疲れた船が、港に停泊してホッと一息つくように、旅装を解き、安定した大地を踏みしめ、傷ついた船を修理し、燃料を補給し、旅の目的と最終ゴールとを地図を開いてもう一度確かめ、明日の出航に備えるところです。
 たった一度のあなたの人生をどう生きたらよいのか、「聖書」を基にして一緒に考えるところです。
 頭の先で考えるのではなく、異なる個性と共に暮らす「生活訓練」や具体的な生活を支える「労働」を通して、地域社会の実際の諸問題の中に身を置きつつ「体で考え」語り合い、生き方の「改善を図る」ところです。(HPより)
http://www.keisenjyuku.com/

一般の教会人から見たら恵泉熟は信仰と労働が一つになっている独特の集まりである。多分自分を含めて多くのキリスト者はここでは生活できないであろうと思う。毎日5時に起きて聖書を学ぶ、時には農作業で3時に起きてやることもあるそうだ。それに雪と寒さの戦い?がある。そして集団生活のような、個が少ないのではないかと思う。後藤敏夫さんは長く牧師をされていて引退されてここに集っている。帰するところは同じだがその過程が違うようなことを書いている。若い時に今は無教会に属している方が学生の頃「帰するところは同じでも集会は結論を先に出すが無教会は色々論議して結論を出す。」そのようなことを言ったことを思い出した。後藤敏夫さんのブログで恵泉熟を知り、牧会者の水谷恵信を知った。そして、この方は長野集会の尾崎兄と学生時代に下宿だったかアパートだったか忘れたが一緒だったそうで、いつだったか長野集会でご夫婦とケアの方のお話しがあることを知ってわざわざ100キロの道のりを長野集会にまで出かけて聞きに行った。夜の集会一回きりだったから水谷恵信さんの話を聞いただけであったが、集会の兄弟たちが学ぶメッセージとそれほど変わらない感じを受けた。最初は高校の先生をされながら牧会されていたそうで、それは諸集会とあまり変わらない。大きな集団の牧会者でありながら話して見れば失礼だがごく普通のおじさんのように見える。カリスマ性をにじませるような感じはどこにも見受けない。しかし、信徒たちには絶大な信頼を得ておられるのだろうと思う。今は霊的な指導者として立っているようである。ここにもご自分をわきまえておられる姿を見受けられる。

諸集会に限らず教会でも牧会者には信徒は右向け右で信頼を寄せている姿をよく見かける。しかし、それは時として人間的な思いの中にある場合が少なくない。是は是、非は非ということは難しい。もし牧会者に従わなければ出ていくしかない。それを違いがわかっていてもそこに留まり、また受け入れていく懐の深さを思わされた。「チャプレンとして迎えました」と言われたがブログを読む限り一介の駆け出しの百姓人である。今度は千葉の方へ移動してそのような働きをなされるようであるがあくまでも恵泉熟の中での話である。「信仰によって」という言葉は、自分のプライドを捨てなければできない。最初、集会で生まれ育っていながらどこか違和感を常に覚えていたので自分と同じ考えをと思っていると共感したが中身が全く違っていた。私のは肉的であり後藤さんのは霊的なのである。お恥ずかしいが何度か読んで気づかされた。あらためて自分が生まれ育った集会、あるいは教会に留まることの大切さを教えられる。そのためには本人は勿論のこと牧会者も謙虚でなければ成り立たないことである。「信仰によって」、主イエス様によってこれが可能になる。神を知ることと神を愛することが一つになる必要を教えられ、それによって信仰によって立つ難しさと大切さを教えられた。「神を愛すること」、「信仰によって立つ」こと、すなわち「謙遜」、目の前にある絶壁のようにそびえ立っている。眺めて終わらないようにチャレンジのチャぐらいはやらないと…。