2016年2月7日日曜日

デボーション

昨年はデボーションにマクドナルド兄の「この日を主とともに」を用いていた。最初にみことばが書かれていて、短い学びのようなものでとてもよかった。ここを読むだけで一日が充実したようなそんな錯覚に陥るほどいいものだった。しかし毎日読むには少し重い感じがしていたので今年は…と思っていた。ダイジェスト版?の日めくりのデボーションカレンダーもあるがこれだと少し軽すぎるかな?と…。それで以前に何年か使っていたナウエンの「今日のパン、明日の糧」を本棚から取り出して今年はこれを使っている。前者の二つと全く違う、みことばの引用はない。前者の二つは外から語りけてくるがナウエンのは内から語りかけてくる。ある意味で重いというか難しい。一月の最後の一週間は許しについて幾つかの角度から書かれている。許し、あるいは許すことにこんなにあるのかと単細胞の私には思えた。そして二月三日にはこのように書かれている。

内なる敵の友となる
 どのようにして私たちは、私たちの内なる敵である欲望と怒りを友にするでしょうか。欲望と怒りが何を言っているのかを聞くことによってです。欲望や怒りは、「満たされない」とか「私を本当に愛してくれるは誰」と言っています。欲望や怒りを好ましからざる客として追い払う代わりに、私たちは、追い詰められ、不安な私たちの心が癒しを必要としていることを認めることが出来ます。私たちの心の不安は、私たちに真の内なる安息を探し求めるように呼びかけています、欲望と怒りとがより深く愛する方法へと変えられるような安息を。
 欲望と怒りは、手に負えない多大なエネルギーを持っています。そのエネルギーが愛することへ向けられる時、私たち自身が変えられるばかりでなく、私たちの欲望や怒りの犠牲になるかもしれない人々さえ変えられるのです。これには忍耐を要しますが、不可能ではありません。

ナウエンは「他の人を心から許すことは、私たちが解放されることです。」(1/26)と書いている。怒りや傷ついた心は簡単に許すことはできない。しかし、それは自分を呪縛することでもある。そんな自分を受け入れ、赦されていることを知った時に怒りは消え、傷ついた心が癒されるのである。結果として許しが伴ってくる。私たちはまず許そうとするから努力が要り、赦せない自分にいら立つものである。ナウエンは逆から解いているようである。動的な世界では難しいことであるが静的な世界ではそれほど難しいことではない。プロテスタントでは動的であっても静的ではないような気がする。それはそれでよい面もあるのだが、でも静的なものはもしかしたら不可能であるのかもしれない。プロテスタントを貶してカソリックを褒めている訳ではないがカソリックに静的な部分があるような気がする。この部分がないと本当に変えられた自分を見ることは難しいような気がする。

二月三日の言葉もそうだが切り捨てるのではなく包み込むことがヒントではないかなと思う。悪いものを切り捨て良いものを残すのではなく悪いものをも包み込むのである。移植の問題は拒否反応である。私たちは違うものに対して本質的にこのようになる。それが人間の本能であろう。それを包み込むのである。ある意味で簡単でありある意味で不可能に近いことでもあるがイエス様がそれを成した。宮沢賢治の「アメニモマケズ」のモデルである齋藤宗二郎はそれをやっていたかから法華経信者の宮沢をこうも言わしめたのである。齋藤宗二郎は内村鑑三の弟子だある。無教会は聖書研究ばかりしている云々と諸集会の指導的な兄弟に言われてそうだと信じていたらどっこいそうではなかったことを知る。勿論聖書研究をやっている方もいれば伝道に教育にと熱心な方々を知って一気に諸集会に対する不信感が募ったことが今でもぼんやりと思い出す。

吉田茂は戦後初の東大総長南原繁を毛嫌いしていたと聞いていたのでどんなごつい人かなと思っていたら年を取られたときの写真を見ればどこにソンナと思うほどおとなしそうな好々爺そのものである。詳しくは知らないが教育に熱心だったようでそれで吉田茂を怒らせたのであろう。そこにあるのは信仰者としての姿があったのではないだろうかと思う。二代目の総長の矢内原忠雄は熱心に伝道したらしい。信州にそして諏訪にもよく来られたようである。お父さんを早く亡くされたH姉妹はこの方が父親代わりになってくれたそうでお姉さんがこの方の息子さんと結婚されている。写真を見るといかつい顔しているのでその旨言ったらとても穏やかでいかつい雰囲気はなかったと言われた。表面的に見えるものと内にあるものが違うが二人とも内に持つキリストの霊があるから人にへつらう方々ではないのであろう。

相変わらずデボーションがこんなになり、書いていながらうちにあるものが何ひとつ解決していないことが露呈してしまった。でもここまで来ないと真の信仰者とは言えないのではないかと思っている。出来ないからダメと言うのではなく、そこにも目を向けなければ片手落ちのような気がする。宣教のわざに熱心だった牧師が世間でもヒンシュクを買うようなことをしていて頬かむりしている姿を見ているとこの辺をおろそかにしているつけではないかなと思ったりもしている。

ナウエンが語る言葉は判り易い。しかし現実となるととても難しい。だからこそ「助け主」が必要なのである。そして発想の転換も…。この本も短い文章で簡単なことばで書いているがとても重い感じがする。来年はまた戻そうと思っているがどちらがいいというのではなくどちらもいい。