2016年3月10日木曜日

3.11

震災から5年になろうとしている。昨日ネットで「PRAY FOR JAPAN ~心ひとつに~」という映画を観た。映画の説明にこのようにあった。

Pray for Japanは学校、避難所、家族、ボランティアという4つのグループから、障害や悲しみを乗り越え、戦う犠牲者たちの姿を映し出し、記録した。4つの違う立場の人たちを負うことによりこの自然災害がもたらした悲劇の重みや影響力の強さが浮かび上がってくる。彼らは故郷や愛する人たちのために戦う、名もなきヒーローたちなのだった。

石巻市雄勝の街を主に上記の人たちをレポートしたものだった。震災も東京に居たらもっと身近に感じたであろうが信州に引っ越した後なので新聞やTVからしか伺うことしかできなかった。関わりとしては少し寄付したくらいだからどこか距離を置いてしまう。もう5年かぁ早いなぁと思いながら少しづつ記憶から消えていくのを感じる。そこで生きている人はいつも現実なのであろうが。

観ていて、映し出されるのは一部分であることを承知しながら彼らの生きる逞しさを感じた。すぐ自分はと当てはめて考えるが自分にそんな力がないことを改めて教えられる。弱音を吐いていては生きて行けないことも事実であるが逞しさは東北人の所為か?と思い巡らしながら、悪魔よ「神は人をそんなに弱いものとして創られていないぞ」と心のうちに叫んでしまった。そして悲惨な状況を思い浮かべながら「アダムよお前は何てことをしてしまったのだ」とも・・・。

しかし、」淡々とあるときは笑顔で話される中にその背後にどれだけの悲しみや苦しみがあるのだろうかと思うと胸が痛んだ。在日のパキスタン人のボランティアの人たちは神戸の時も行かれたそうだ。喜んで奉仕している様を見、また和気あいあいと被災者と交流している姿を見ると天にある交流を思い浮かべてしまった。助ける助けられるの関係でなく仲良く交流ができるのになぜ人は国と国が争い殺戮を繰り返すのかと嘆かずにはいられなかった。

彼らは負の遺産を負いながら逞しく生きていく場がある。しかし、ダブるのは原発の福島である。自然豊かに見える地は人の住めない地なのである。こんな悲しいことはない。まさに人災であり、マモンに踊らされた輩のツケを彼らは負わなければならない。住み慣れた故郷を放棄するということで、あらためて生かすのは「人」が中心でなければならない。マモンが中心となれば必ず災いが来ることは確実である。何事も「人」が優先されなければならないと、敢えて言えば神より、なぜなら70年前まで神の名のもとに日本人は虫けらのように扱われ、神の名の下でイエス様は十字架に架けられた。人が造り、人が理解していた神ではあるが・・・。