2016年3月14日月曜日

信仰の軌跡

一キリさんも紹介されている後藤敏夫さんが牧師時代に「現代における共同体的霊性」という題で講演されているのを5回に分けてご自分のブログに載せられていた。長い文章で5回にもわたっているので思案していたら追記の中にご自分が書かれた「終末に生きる神の民」の改訂新版により詳しく纏めてあると記されていて、この本は手元にあるのでこれを読み始めている。

後藤さんは私より10歳くらい若いが信仰を持たれたのは同じ時期のようである。読みながら信仰の軌跡をみていると自分も同じような軌跡をたどっているのかなと思わされて共感する部分が多々ある。引退されたとはいっても牧師であり、(長野集会で水谷恵信さんとお話をした時にはチャプレンとして迎いたようなことを言われていた。今年から北海道余市の恵泉塾から千葉県四街道の恵泉塾に派遣?されて、そのような働きをされようとしているのではと伺わせる。あくまでも恵泉塾での働きの中でと謙虚である。)そのような方であるのと貧徒である私が・・・重々承知の上で・・・。

ご自身の信仰の歩みを振り返りながら、聖書的霊性という観点から考えてみると、そこでの中心的論点は、私たちの聖書理解に深く浸透している、霊肉二元論と個人主義の克服であると記している。
また、高校生の時にアメリカ人宣教師に導かれ、イエス様を救い主と信じ、若い日に聖書を信じる福音主義の信仰に導かれ、今もその道を歩んでいることを、神様と、信仰に導いてくれた宣教師に心から感謝しているとも記している。
後で気づいたことでと断りながら、その当時のアメリカ人の宣教師たちや、その影響で信仰を育まれた者たちには、福音の理解に置いて避けることの出来ない時代的制約があったように思うと。戦後日本の福音派の礎を据えた宣教師たちは、自由主義キリスト教(リベラリズム)と根本主義キリスト教(ファンダメンタリズム)の対立の中で、根本主義に立つ神学校で教育を受けた世代である。

このような下地の中で福音が宣べ伝えられてきたようである。自分も実際経験した中であたかも本質的なようで実は本質的でなかったり、そして本質的なものがスポイルされるという構図を見てきた。それと私たちの信仰生活の中で霊肉二元論が根強く働いているような気がする。これは正に悪魔の束縛と思っている。イエス様の言動はある意味で反社会的なものである。それと最近思うのだが教会の重きを思うようになった。人数の多寡ではなく、召された者が集う集会である。多分後藤さんも指摘されているのだろうと思うが個人の救いを強調するあまり教会をただ単なる救われている者の集まりのように捉えるきらいがあるのではと思っている。正しいかどうかわからないが教会を真に捉えていないような気がしてならない。霊性とも絡んでくるのだろうか霊性はカジレても消化不良を起こす霊的乳児であるから・・・。牧師でさえ信仰の遍歴?があるとすれば変に育った私などは大いにあって当たり前、主のみ心を求めて右往左往しながら歩もうと思う。バンヤンの天路歴程のように・・・。