2016年3月14日月曜日

本能寺の変再び

私が日本人であることを自覚したのは集会に導かれて外国(主にアメリカ人)の人たちと交わるようになってからである。どこかどうと問われると答えようがないが彼らと接するうちに自分が典型的な日本人であることを自覚させられた。それまではどこを見渡しても日本人ばかりであるから比較するものが無いから知りようがない。そして自分の姿を見てこれは豊臣、徳川の鎖国から来ているのではと思うようになった。これも根拠はあいまいである。鎖国はある意味で共産圏で今も続いているがいいわけがない。北朝鮮は勿論、解放されつつある中国でも内実は恐ろしいものがあるようである。江戸260年の文化は独特のものがあるがそれはあだ花のようなもので本質を歪めたにすぎないのではと思っている。関が原の戦いは天下分け目の戦いであると言われるが歴史を変えたのは信長の死であろうと思う。和辻哲郎も「鎖国」の中でそのように書いている。信長が生きていればどうなったかわからないが少なくとも豊臣、徳川は後ろ向きの生き方をしてしまった。ある意味で日本人を駄目にした張本人かもしれない。だから本能寺の変は変なのである。