2016年3月31日木曜日

三月も終わりに

光陰矢の如しという言葉があるように過ぎ去っていく月日は早いものである。今年ももう四分の一が過ぎてしまった。来月は新年度新学期である。集会のO兄は息子さんが中学生、娘さんが小学生と保育園児と揃ってピカピカの一年生である。子供さんのいる家庭は大変だけれども変化があっていい。年寄り夫婦の生活はほとんど変化がない。日中それでも会話はあるが夜は、私はパソコン、家内はTVと会話はない。それでも午前中は炬燵に入って向き合いながら聖書を読んだり勉強のまねごとをしている。でも、ほとんど会話は無し、こういう努力はしない夫婦である。互いに我が道を行くといったら大袈裟か?

このところ更に暖かくなり、室内の鉢植えも気持ちなしか元気がいい。昨日、今日と畑に行って畝つくりをしてきたがこの暖かさでニンニクの苗が大分伸びていた。玉ねぎは相変わらずだがそれでもマルチを被せてある土は暖かいからそのうち延びてくるだろう。。去年はスペースがなくて白菜、キャベツ、それとインゲンやキュウリを狭い間隔で植えたので今年は少しスペースを取れるように畝を増やしてきた。もう鍬を入れるのはほんの少しになった。そこはかぼちゃの蔓のために残すようなものにしているから畝つくりは終わったと言ってもいいのかな?自分なりに整地と配分を考え、後は彼らに任せるつもり。こんなことが出来るというのも3月なる所以である。

変化のない日々であるがそれでも年を取っていく中で教えられることも少なくない。庭にも緑の葉をのぞかせ、枯れ木のような紫陽花の先に紫色の目を出し始めた。春は新年度新学期だけでなく、緑の葉をのぞかせて寒さを乗り越えた力強さを感じる。まさに若者の姿であろう。しかし、秋の紅葉を思うと枯れていくものの美しさがある。春にはない色鮮やかさである。変化していく紅葉は死して行こうとする姿でもある。そして枯葉となって地面に落ちていく。これは年寄りの姿でもある。色鮮やかさは年季の入ったものしか出せない色である。若者には出せない色であるがしかし死して行く色である。