2016年4月22日金曜日

聖書雑感 盲目とは



john 9:39.41
そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」

イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」

聖書の箇所を部分的に取り上げて解釈することはよく指摘されているように間違っているかもしれない。聖書の理解や知識の乏しい者にとっては陥りやすいことでもある。自分もその一人である。でも、文面通りに読む読み方とひねって読むよ見方があってもいいのかなと思う。福音書から見るイエス像は皮肉屋で型破りな面を持っている。それは、物事というか当時の常識に囚われないということも言える。人間の常識はその時々の社会生活の規範のようなもので移り変わっていくものであり、それが真に正しいというものではない。そういう面で見て行くと、信仰生活を振り返ってみると大分、信仰、聖書理解は変わったのではと思っている。金科玉条のように信じていたものがただ単に現在は行われていない昔のイギリスの習慣であったりと聞くと腹が立ってくる。ラインホールド・二―バーの祈りと言われる言葉を思い出す。

 「主よ、
 変えられないものを受け入れる心の静けさと
 変えられるものを変える勇気と
 その両者を見分ける英知を我に与え給え。」

キリスト者が持つべき大切なもの、そしてそれがいかに難しいものであるかを端的に語っている。聖書を含め諸々の知識は必要である。しかし、気をつけないといけないのは見える(知っている)と思っている時はもしかしたら肝心なものが見えない(知らない)時であるかもしれない。見える(知る)と思うときは謙虚でなければならない。「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」(1コリ8:1)とあり、実に至言である。違った見方にも耳を傾けるということでもあろう。要は謙虚であれということであるが書いていながら持ち合わせていないことを実感する。ヨハネの福音書は共観福音書と違った深さ、視点があるように思う(感覚的なものであるが)。