luke 7:37-39
イエス様が人々と会話しているのを見ていると示唆に富んでいることが多い、否すべてかなぁ…。同じルカの福音書の10章にはよく知られている「良きサマリヤ人」のお話しが記されている。これも然りで、サマリヤ人が浮き出ているが常識的に見れば祭司もレビ人も血が付いた体に障ったら自分の仕事ができない。仕事放棄である。尊い働きを「下賤のサマリヤ人に妨げられたくない。」ある意味で当然であると思う。正義ぶっていたって今日も日曜日優先、奉仕優先はまかり通っているじゃない?だから何という訳ではないけどナタンに指摘されて激高したダビデもそれが自分のこととは知らなかった。これは世の常であり、キリスト者だからといって特別ではない。私もそうである。
このパリサイ人も然りで「罪深い女」なんて縁もゆかりもない。否、あってはならない人たちなのである。ユダヤ人であれば当然なのことである。ましてや預言者ともあろう者がと思ったとしても不思議ではない。パリサイ人が思うことは当然である。前にも書いたがイエス様は非常識人なのである。常識人であればこんなことはさせない。まさに激高したであろう。
ここには女性の行為が細かく記されている。「イエスのうしろで御足のそばに立ち」という後ろに立つという行為が気になる。なぜ泣いたのだろう?悲しかったのだろうか。汚い脚に口づけするほどイエス様に対する親愛の情が深かったのだろうか。否、汚いなんて思うこと自体が常識人の範疇に入っている。彼女にとっては汚いなんて思うこと自体がおかしいことであろう。高価な香油を惜しげもなく注ぐなんて、考えられない。これも惜しげもなくなんて発想はなかったであろう。
を思い出す。そしてこのみことばも、
彼女の行為は、彼女の心の思いを絞り出すように出したものが、涙となり、香油を髪で塗るという行為に至ったのであろうと推察する。人は外面的なことしか見えない。そしてそれで判断する。しかしイエス様は行為も然りであるが心を見られるのである。人の目を気にすることなく、「罪深い」と言われる女の行為を喜んで受け入れておられることはうれしいことである。自分も彼女と変わらない者であるという思いがあるかもしれない。しかし、決定的に違うのはイエス様に対する思いが彼女の比ではなく、彼女の足元にも遠く及ばないことである。分かったのはそれだけだ。