2016年5月20日金曜日

聖書雑感 自由ということ

john: 8:32
そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
john:14: 6

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。


通読もヨハネ伝が終わって使徒行伝に入った。今回の通読で感じることは、字面だけを追っているだけの時が時折ある。気がついてまた読み返すということを繰り返している。集中力がなくなったことを感じるがこれも年の所為とあきらめている。読めるだけでもまぁいいかとそれなりに感謝している。

ヨハネ伝を読み終えて「真理はあなたがたを自由にします。」のみことばに立ち止まって思い巡らした。それに付随して「わたした道であり、真理であり、いのちなのです。」のみことばを思い出す。イエス様は「道」であり、「真理」であり、「いのち」なのである。この真理をイエスと置き換えれば、「…あなたがたはイエスを知り、イエスはあなたがたを自由にします。」となる。

私たちの言動に同じことをやっていても二つの種類がある。それは視点が自分か他者かの二つである。他者のためと言いながら自分の利益のためにやっていたり、自分が好きでと言いながら他者に対する思いやりからやっている。そのようなことは日常茶飯事見ることが出来る。前者は自分の利益のためでなければやらないが後者は自分が不利益になっても他者が利益を得るなら実行する。同じ言動でも根が全く違うのである。そのことは福音書の中で、パリサイ人、律法学者、祭司たちとイエス様を見るとよくわかる。イエス様はユダヤ人が軽蔑していたサマリヤ人のところにも行き交わっている。そのサマリヤ人が軽蔑していた女のところにもなんのテライもなく行き交わっている。「俺はあんな罪人と交わらん。」と律法に忠実であることを誇っていてもただ単に律法に縛られているだけに過ぎない。そこには愛は必要としない。

私たちの知識とか常識は、時折私たちの言動を束縛する。愛はそこから解放してくれる。律法学者やパリサイ人は律法に生きているようで律法に束縛されていた。イエス様は律法を実践されたが律法に束縛されてはいなっかた。律法を愛に包んだ方である。御父のみ心を具現化し、私たちに愛を注いでくださった。その最大なものは十字架であろう。私たちに「いのち」を与えるために自らのいのちを失した。私たちが永遠に生きるためにである。他者から見たら不自由そうに見えても本人はいたって自由ということもある。それは自分が生きるためではなく他者を生かすためである。これが愛というものなのだろう。「イエス様はあなたがたを自由にする」と。