2016年5月3日火曜日

聖書雑感 その時から

マタイの福音書には二つの時が記されている。「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(4:17)と「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」(16:21)。

「この時から」イエス様は宣教を開始され、語られる言葉においてもなされるわざにおいてもこの方こそメシアではと注目されていった。しかし、メシアであっても弟子をはじめ民衆のメシア感は違っていた。ローマの属国であればそこからの解放を願うのは当然であろう。しかし、解放されたとしても新たな隷属が始まる。国の歴史をみれは明らかである。イエス様は目に見える隷属ではなく罪からの解放を目的としていた。

「その時から」は、更に民衆の注目度を上げていったがイエス様は本来の務めを弟子たちに語り始めた時である。それは、人々が歓呼をもって迎えるようなものではなく、困難で苦しい道なのである。「その時」はペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と告白した「その時から」なのである。そして「その時」は、カトリックに配慮して?「わたしの教会を建てます。」とイエス様は新しい神の民の誕生を宣言した「時」からなのである。ここに国や民族、そして人種を越えて、真に解放された新しい民が誕生するのである。

伝道者の書に「・・・に時がある。」(伝3:1-8)とある。「すべてに時がある」、放蕩息子が貧乏のどん底で神に立ち返るように、人の目に良く見えなくとも「神の時」はそのような「時」にこそ新たな進展があるような気がする。私たちの小さな信仰であっても歴史を変えるきっかけになるものを持っているのかもしれない。ある意味で怖い気がする。それは多分信仰に「不」がつくから・・・。