2016年5月30日月曜日

愛ということ

世の中に二つの価値観があるとよく言われる。一つはその人の能力などの持っている諸々のものがどれだけ世の中に価値を持つかともう一つはそこに存在しているだけで価値があるというものとである。世の中が認める価値は誰でもわかることであるがもう一つの価値は当人かごく限られた人しかわからない価値である。

後者の価値観は親が子を思う思いなどが顕著であろう。特に母親の子に対する思いは敬服に与えする。父親、男はそこまで徹することはできない。「神は愛です。」(1ヨハネ4:16)とある。子に対する母親の姿を見ているとこのみことばを思い出す。神がお造りになったものを見ているとその発露が愛であることが何となくわかる。最近、子を殺す親もいるがまだまだ子を愛する親は圧倒的であろう。

愛という行為はどういう訳か犠牲が伴う。その犠牲が大きければ大きいほど愛の大きさを感じるものである。3年くらい前に北海道で猛吹雪の中で迷って娘さんを救うために娘さんの体を覆うようにして自分は命を落とすという痛ましい出来事があった。愛という素晴らしい行為が死という代償を払わないといけない。悲しいことである。本来「愛」は犠牲を伴わずに人を生かすものであるはずである。創造のわざを見ていると喜びに満ちていることが想像される。それが犠牲を伴うとなるとまさにそこに「罪」が厳然と横たわっていることがわかる。罪は死をもたらし死は人と人との絆を厳然と引き裂いていく、死の悲しみがそれを言い表しているようである。

「愛」の最も大きいものはイエス様の受肉と十字架であろう。この愛の行為が生きとして生けるものに永遠の希望をもたらしてくださった。新天新地に住むようになった時には愛は悲しみを伴うことなく賛美と感謝と喜びに満ち溢れたものになっているであろう。それを思うと直罪の残酷さを思い知らされる。