2016年5月28日土曜日

本を読むこと

どちらかというと本を読むのは好きな方かもしれない。兄が中学生の時、図書委員をやっていたのか新刊本をよく家に持ってきた。彼が机の上に置きっぱなしを自分が熱心に読んでいた記憶がある。お蔭で中学に行ったら少ない図書でその上割と新しい本はほとんど読んでいるので読むのがなかった記憶がある。大阪のおじさんが疎開してきていた時に置いていった赤穂浪士の「義士・・・伝」という辞書みたいな厚い本を読んでいたら父にお前は「長三郎の子だなぁ」と言われた。長三郎とは屋号でおふくろの実家でおふくろの兄にあたるおじさんが読み物が好きでよく本を読んでいた。

この年になって思うことは、本を読むとは「活字を読める」ことにつながるのかなと、単に活字だけであると何となく意味は分かっても読めないことがあるが文章だと流れに沿って感で読めることがある。そうやって読める活字を増やしているそんな感じである。勿論、年をとってから覚えるものはすぐ忘れやすいことを実感するがそれでもそれをやらないと更にとの思いがあってやってる。いつもではないが辞典で調べたりもしている。中学生クラスの漢和辞典、英和辞典をブックオフ108円で売っているので買ってきて時折広げている。無学なものにはちょうどいい。

パソコンをやるようになって書くということが少なくなってから字が書けなくなった。以前に都知事選の合同討論会の時に石原慎太郎氏が司会者の質問に用紙で書くとき同じようなことを言われていた。多分私一人ではなくパソコンをやる人すべての問題かもしれない。そんなわけで簡単な活字くらいはかけるようにと書いている。書くということは活字を覚えるのにとてもいい。といってもすぐ忘れてしまうのだがこれをやらないと更に駄目になるだろうと思っている。本を読むのも字を書くのも遅くなってまさに遅々たるものであるが・・・。

昨年の8月に諏訪日赤かの主催で原千晶さんの講演会が岡谷市のカノラホールであった。それを夫婦で聞きに行き、彼女が書かれた本も売っていたので買ってきて、少し読んでホッテおいたが最近読みだして今読み終えた。彼女のことはあまり知らなかったがTBSの昼の番組に出演されていて(最近はあまり観てないが)コメントを聞いていて感じのいい人だぁ位の感覚だった。それもあって行ったのかもしれない。彼女ががんを患いその闘病記を本にされていた。

講演で何を話されたかはほとんど忘れてしまったが病気の大変さと同時に身内の精神的な支えがいかに大きいかをしって今も印象に残っている。病は気からというが医者の治療だけでなく精神的な強さ、まわりの支えは決して小さくないことをも思い知らされた。彼女は元気に回復されて「よつばの会」を主催されている。しかし、会のメンバーでも亡くなられた方がおられ、若く、お子さんもおり、そのような家族を残して死を迎えることはいかに無念であろうかと活字からも伝わってくる。死の彼方に希望がなければ絶望である。下記のみことばを思い出す。「ぜつぼう」の「〝」を取れば「せつぼう(切望)」である。これで死を克服しようと切に思った。

hos:13:14
わたしはよみの力から、彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか。あわれみはわたしの目から隠されている。