2016年6月16日木曜日

あと一息

6回目のゴミ拾いでジョギングコースを終えるかなと思ったが少し残ってしまった。残りは折り返し地点から始めたが葦と雑草がたくさん生えているので砂利の部分が少なく、水際でやらないとダメなので長靴を履いて行ったのが正解だった。ここもほとんどゴミがないところと吹き溜まりのようにゴミが集まっているところとがあって面白いなぁと思った。ここは人が来るのは釣り人くらいだからあまり人が来ない所為か汚かった。それほどの距離ではなかったがアッという間にスーパーの袋二つがいっぱいになり、袋がないので帰ってきたという次第である。それに座布団とプラスチックの容器など大きいのは収容しきれないのでそのまま置いてきた。座布団は日干しをしていれば大分軽くなるだろうとの思いもあった。結局、45ℓと22ℓの袋二つにして出したが肝心の我が家の生ごみを入れるのを忘れてしまった。抜けているのは今に始まったことではない。

丁度、エビを獲っている方がすぐ近くまできたので挨拶して言葉を少し交わす。「ご苦労さんです。諏訪湖は汚いねぃー」と言いながら小さな網を下していたがエビはあまり獲れないようなので汚いのは湖岸なのか湖水なのかと?と考えてしまった。諏訪湖は夏になると水草(ヒシ?)が繁茂して生態系を壊しているようだ。去年は繁茂のひどい時に二艙ばかりで水車のような歯車?を回してとっていたのを見かけたことがあって、どうせ採るなら繁茂しない前にと思って見ていた。諏訪市の方でボランティアを募ってやっているようだ。外来種の雑草も問題で以前にこれがそうだと教えられたがどれもこれも同じに見えて何度教えてもらっても覚えられない。

次回は、少し残ったところをやって、漕艇場の方に戻るように拾って行こうと思う。前にも書いたがこれをやったからといってどうなるわけでもない。ジョギングコースにはほとんどゴミは落ちていないが偶にキャンデイやおにぎりの包みが落ちていることがある。小さな袋をもって拾ったりしている。綺麗なら誰も捨てられないが汚いと我も我もと捨ててしまう人間の習性がある。うまく働いているのだろううれしいことである。駐車場も然りである。それと魚の死骸はそのままにしていたが漕艇場の周りは拾って子どもたちが気持ちよく練習できるようにできたらと思っている。あそこを再々々やれるのはいつの日か?それが終えたら漕艇場から岡谷方面が残っている。ゴミが目についていたのが無くなってからあちらの方もゴミが目立たなくなった。それでも岸辺に行けばそれなりのゴミはあるのだろう。それが終えたら一段落、いつの日になるか…。

「示し」というのは不思議なものである。無我夢中の信仰生活では何もなかったが少し落ち着いて来ると「示し」というものが問いかけるようにやって来る。あるいはそれ以前からあったのかもしれないがあまり意識することはなかった。子育ても集会生活もお粗末そのものであるが些細なことであるかもしれないけれど問いかけが来る。これは、或いはあれはどうするのか?という風に、やらなければ、行かなければとなる。逃げればまたそこで別な問いかけをして来る。全然別かなと思っていると一本の線のようにつながっている。結果はこれだったのかと思わされる。歓迎されるわけでもなし、肉の思いは心地よくないということで、これが御心なのだろうと思っている。そして結果を見ることも出来る。しかし、だからといっていつもとは限らない。「示し」てくださる主はこちらがアクション起こすまで忍耐をもってそれを成される。これは感謝なことであり、恵みであることを思う。今回のことも「示し」と「問いかけ」があってのことと思う。だからただやるだけのことなのである。