2016年6月2日木曜日

今日のパン、明日の糧より

この世にあって、この世のものでないイエス   6/1

 山上の垂訓は、イエスの自画像を私たちに示しています。初めに見たときは、最も人目を引かない自画像のように思われるかもしれません。一体誰が、貧しく、悲しみ、迫害されることを望むでしょうか。一体誰が、本当に柔和で、憐れみ深く、心清く、平和を実現し、いつも正義に心を傾けていることが出来るでしょうか。ここで現実に根ざした生き方とは何でしょうか。私たちは、この世界で生き延びるためにこの世のやり方にならう必要はないのでしょうか。
 イエスは、この世のものとならずにこの世に生きる方法を示してくださいます。イエスの生涯に範を取る時、私たちの前に新しい世界が広がって来ます。天の国は私たちのものとなり、この地は私たちが受け継ぐものとなるでしょう。私たちは慰められ、満たされ、憐れみを受けるでしょう。そうです。死んだ後だけではなく、今ここにおいて私たちは神の子として認められ、真に神を見るでしょう(マタイ5:3-10)。それがイエスの生涯を模範として生きる報いです。


イエスのようになる   6/2

 しばしば私たちは身を引いてイエスの間に隔たりをおいています。「イエスがご存知だったことを知ることは出来ないし、イエスがなさったことをすることも出来ない」と私たちは言います。しかし、イエスはご自身と私たちとの間に、決してへだたりを置かれません。イエスは言っておられます。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(ヨハネ15:15)。「はっきり言っておく。わたしを信じものは、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」(ヨハネ14:12)。
 イエスが知っておられたことを知り、イエスがなさったことを行うようにとわたしたちは呼びかけられているのです。私隊は本当にそうしたいと望んでいるでしょうか。それとも、イエスを遠ざけておきたいですか。