2016年6月22日水曜日

大きな手の中で

acts 17:28
好きなみことばであり、また日々の生活の中で実感できるみことばでもある。聖書を知らなかったときは自然、まさに自然であって神様が創られたなんてことは考えもしなかった。小さいころ多分農閑期だったのだろうかあるいは田植えや稲刈りの一段落した時であったのだろうか母を含め集落の主婦たち数人でお寺でお坊さんから何かの講釈をしているそんなところによくついて行った。意味がよくわからなかったが何か有り難い話をしているなと思っていた記憶がある。多分、人としてどう生きるかを講釈していたのかなと思ったりもしている。勿論、じっと話を聞いているわけではなく、お寺の広い本堂で遊べるのはこんな時でなければできないこともあって一緒に行ったのかもしれない。「仏教はどう生きるかを教える。」とか聞いたことがあるからある面で子供心に何か感じたものがあったのかなと思ったりもしている。


我が家は貧しかったが親はだからといってガツガツしてはいなかったように思える(貧しさは実感していた)。子供心にどこか鷹揚としていたように見えた。お金よりも人を大切にしていたのかもしれない。でも、それは家よりも他を優先するということで、俗に言う「外面はよくて内面が悪い」ということでもある。私にもどこかそのような面がある。
そんな背景の中に育っている所為かあるいは関係なくかわからないが「生きている」ということが主の大きな手の中に生かされていることを実感している。この年になると自分の力なんて爪の垢ほどもないことを教えられている。しかし、臆病で傷つきやすい性格もあって気分がダウンすることも少なくないがこれは生きている上で避けて通れないものとして受け入れている(諦めている)。でも強い人を見ると羨ましい思いを抱くのも正直な気持ちでもある。ある面では問題だらけの感がないとは言えないが今健康が生活が守られていることは大きな恵みであり感謝なことでもあることをこの年になって思わされている。もうこの年になると生きていることは余生であり、感謝できることは恵みである。

私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。