2016年6月8日水曜日

今ある成城学園・玉川学園の成り立ち

 短い文章は原稿を見ながら何とか打てるようになったので、少し長い文章にとチャレンジすることにした。これは今の成城学園、玉川学園の成り立ちの端緒になった出来事でもある。これを書かれた方は玉川学園の創立者小原國芳氏である。元々は「小原國芳全集11」〔秋吉台の聖者本間先生・玉川塾の教育〕(玉川大学出版部)に収録されており、これを少し短くして「本間俊平選集」(日本YMCA同盟出版部)の中の「諸家の追憶」の項に収録されているものである。成城学園、玉川学園の関係者でなくとも小田急沿線に縁のある方であればそれなりの興味ある出来事であると思う。しかし、本来は明治、大正、昭和の戦前に活躍された特異?なキリスト者本間俊平のエピソードの一面を語っているのである。


本間先生訪問記 

 沢柳政太郎先生に呼ばれて、成城小学校の主事という重い任務を与えれて東上しましたのは大正八年十二月でした。国家の補助があるでなし、富豪の援助があるでなし、一文なしで「自給自足」の意地を通すのもなかなかの苦闘でした。
 子たちが六年生になりますと、折角の新教育、到底、これを他に送るに忍びず、苦戦悪闘の結果、無理に中学校を作りました。
 経営は毎年マイナスからマイナスです。年末に毎年毎年赤数字ばかり出ますのはかなりの苦しみでした。それでも、いつの間にか、小学生からズット育った子どもたちが、中学三年まで伸びて来ました。あと一年で今度は高等学校です。一番試験準備で教育の本質が傷つけられている中学の四年生五年生。更に、粗暴と野卑とフシダラそのもののような今日の三年生高等学校、ただ一高の亜流たらんとして、その長を捉えんよりはその短所のみを習っているような高等学校へ誰が子供を送れましょう。何とかして、高等学校を作りたい。しかも、それには二百万(今なら、少なくとも三億)・(全集では二十億とある昭和四十四年出版)の金を少なくとも要したのです。政府への供託すべき保証金すら五十万円という現金です。棚からボタモチを待っても居れず。子供は日一日とグングン育っていく、歳月は刻々と過ぎて行くのです。職員一同が寄るとさわると早く、誰かに、何処かにと、誰いうとなく話したものです。
 月給は皆五十円均一の頃です。年賀状のはがきも年越しのオモチもなかなかの頃です。苦しい大ミソカは遠慮なくやってきました。
  ミソコシの底にたまりし大晦日
    こすにこされずこされずにこす
成城の十数年の大晦日の実感は全くこの狂歌そのままでした。
 明けて大正十三年の一月一日。牛込のオバケ屋敷そのままの古校舎の中のお正月の式をすませ、子どもたちに配った蜜柑の余りや、スルメをかじりながら、夢の学校は次から次へと展開していきました。
「ああ、金がほしいなぁ」腹のどん底から、うなると
「先生、ゼヒ、本間先生に貰いに行ってよ!」、と皆が言い出す。
「よし、今年は、もう何としても出かけねばならない!」、「だが、おい、出掛ける旅費もないのだ。」というと、誰いうとなしに、年越しの財布を開いては、ありったけの金を一円、二円とみなが出す。十一円なにがしが集まったのです。それで、とうとう終列車で西へ立ちました。
 金は秋吉まで行くには、三等でも不足でした。幸い、妻の父が徳山に居ました。どんなに貧乏牧師でも、それから先の旅費くらいはあろうと、アテにして、帰りの旅費は国の兄にトクヤマあてに送ってもらうよう打電して立ちました。
 時ならぬ客を義父は喜んでくれました。そして秋吉までの旅費をとお願いすると、丁度、クリスマスに集まった献金の小銭だけを費って、大事に残した五十銭銀貨を!それは貧乏牧師にとってはトラの子より大事な五十銭銀貨の紙の包みを、タンスの抽斗から持ってきてくれました。何といってお礼をいっていいのでしょう。婿がかわいいのか、娘がかわいいのか。

 小郡で下車して、萩行きの乗合自動車にのって、太田で下車して、人力にのりかえて秋吉についたのは、一月の四日でした。最初の訪問からフシギにもちょうど十年目の同じ、正月の四日でした。
「忙しいアナタがよく来られたなぁ」と先生は孫でもいたわりうように喜んでくださいました。
「上がれ、上がれ。寒いよ。」とて大きな火鉢のそばに坐らせて、大きな白毛布で腰から膝をクルクルと巻いて下さいました。
「おれの家は風邪を引くに都合よく出来てる。寒いぞ、寒いぞ。火に当たれ、火に当たれ。」と、全く、自分のうちに帰ったような気持になりまし。室は相変わらずギッシリ、本から帳簿、英字新聞の堆、それに年賀状が大きなお盆に山盛り。一々、お返事だけでも大変だろうと思いました。
「忙しいあなたが、新年早々、何の用事じゃ。」
「先生、金貰いに来ました。」
「金貰いに?素寒貧のワシじゃ、金は一文もない。一体、何するんじゃ。」
「どうしても、もう高等学校を作らねばなりませぬ。何処からか金貰ってください!」
「一体、いくら要るのじゃ。むう、二百万円!そうだろうね。○○のおバアさんがね、女の身で何千万と儲けたものだ。神様の御用に貰ってくれろって、その一割、ちょうど二百万円、持ってきたものじゃ。俺には神様が下さるから要らぬといってつき返したものだ。その後、いろんな人がその金を貰ってくれといって来るが、二三遍、かけ合って見たが、遺言状がないといって、物にならぬのだ。気ぬけのサイダーみたような重役が二三人居るよ。あれじゃ何ともならぬ。だが、まぁ帰りに会って見たまえ。電報打ってあげる。当主に当たるには大事な人がいる。××××という西洋人じゃ。一つ会って見給え。」と早速、長文の紹介電報を打って下さる。

「さぁ、なかなか、この節、容易でないぜ。持っている奴はなかなかくれないよ。」とて、先生は数分間、腕組みして考えて居られる。
「む、そうだ。十哩、郊外に出ろ。まだ武蔵野は広い。安いはずだ。学校を作ったら、あたりが騰貴する。そして、土地を半分売るんだ。コロンビア大学だって、そうだった。福岡の安川さんの学園だってそうだった。」
「成程」とピリッと来ましたが、ただ一つ困ったことには、小学校一年生から三百五十名の子供をどうして十哩通学させよう!
「先生、小学一年生の子どもたちをどうしましょう。」と失望の問いを発すれば、
「馬鹿いえ!お前がいい学校を作れば交通は必ずついてくる。交通のついて来ないような学校ならツブレちまえ!」
何という天来の響きでしょう!私の五体は電気に触れた如くピリッとしました。
「そうだ!交通のついて来るような学校を、俺はキット作るんだ。つくらねばならないんだ。」
 その瞬間、トテモ大きな精神的飛躍と大覚悟が湧きました。否、湧かしてくださった先生に何というフシギな宗教的な啓示と実際的直観が湧くんでしょう!
 先生は立って、山なす書類の中から大東京の地図を探し出して来られました。そうして腕組みしたままシキリと考えて、独語をはじめられました。
「東北本線の方はダメだ。北には人は行かぬ。千葉の方もダメだ。本所、深川を通るのが汚い。中央線はもう八王子で行き詰りだ。そうだ、やはり相模の平野じゃ。東京から横浜、小田原とズーッと東海道線は弓なりに曲がっとる。キッと、新宿から小田原へ一直線に将来、汽車が出来るにちがいない。この方向だと、」小田急電車が現在通っているそのままに指で線を引かれる。なるほど、帰ってから日清戦争直後の古い地図を出してみると予定線が地図に記されてあります。今日、成城学園も玉川学園も小田急を使っていることを考えると全く神の予言として私にはフシギでたまりませぬ。
 そして、先生は、土地買収や土地整理、金の借入方から分譲法、いろいろな知恵を授けて下さいました。「先生と言われるほどの馬鹿でなし」全く世間知らずの先生である私も、はじめての大胆な仕事をはじめるべく決心しました。大きなインスピレーションに点火されたとは言いながら、一面、非常識と無謀と大胆と夢とが、事を決行させたのです。話は脱線しますが、私が事を決行した時に、幾百の親たちは「教育者なんて無謀なものだ」と言って驚いたそうです。
 その夜は殆ど三時か四時頃まで話がはずみました。小菅監獄の天国化、囚人たちから来る山と積みなす感謝状。アメリカへ行って居られる娘さんの葡萄園の苦心、先生の徹底した愛国心、秋吉へ移転当時の迫害、納税の義務、感化事業の苦心、留岡(幸助)先生の話、執行猶予と死刑廃止論、教育の本質論から罪悪論、全く話はつきないのです。とうとう、先生の伝記を書いてみたい気になりました。喜んで下さいました。写真やらいろいろの材料を下さいました。そして出来たのが「秋吉台の聖者本間先生です。

 希望と勇気と知恵が与えられて、奥様や妹と同窓である娘さん方にお別れして立ちました。先生は少し風邪でお具合のわるいところをワザワザ太田まで一里半もありましょうか、話しかけ、話しかけ送って下さいました。
 太田で、二三十分も待っていますと萩からの小郡行の乗合自動車が来ました。大きな握手でお別れして乗りました。実は私の財布には一円そこそこの金しか入って居ない筈です。何というフシギでしょう。それを何の不安もなく私は車上の人となったのです。
 運転手がドアを外からしめてくれると同時に、先生の大きな手はホロの外からヌッと出て私のポケットに入りました。
「君、汽車の中かで弁当買って食ってくれ。」
と。私はその時、アッ、私の財布は軽かった筈だとはじめて気づくと同時に、先生の有り難い徹底的愛がシミジミと感じられたのです。
 道の真ん中にジッと立って見送って下さる先生のお姿を、自動車のエナメルを透かして曲がり角で見えなくなるまで拝して、さっきの紙包みを外の客に分からぬように押し頂いてみますと三十両。それは正しく、私が東京まで変えれる、しかも、二等の汽車賃と急行券と弁当代と自動車賃とに十分なだけでした。
 先生にとっては全く、私財なんてないのです。一切が神様のものなのです。知恵も富も心も身体も時間も……一切が神様の御用のためなのです。私は聖貧に甘んじたアッシシの聖者フランチェスカと、信仰と勇気と力のポーロや日蓮と、温和と平安と絶対信仰の親鸞とを打って一丸とした先生を想起いたします。そして、ハンマーと車と汗とソロバンと政治と事業とが融合しているのですから、全人教育を目標としている私は、霊と肉、天と地と、汗と魂と、バイブルとエコノミーとを打って一つにしようという玉川塾の教育目標は、生きた先生を如実にこの世に有しましたことをこよなき幸福とと感謝しています。そして、「秋吉台の聖者」という形容詞は当然すぎるほど当然だと思います。
 しかも、先生はこの日、非常な無理をして送って下さったために、極度の痛みを生ぜられ、痔疾は甚だしく出血となり、遺言まで家族の方々になされた程だったそうです。気の毒がるからとて私には知らさずに下さいまして、一二年たってはじめて知った私は何といってお詫びやらお礼やらしてよいかそのすべを知りませぬ。ただただ勿体なさでいっぱいです。

追記
結構な時間がかかったが何とか打てた。原稿を見ながら、あるいは画面を見ながらの、それに変換が今風でないからそれにも煩わされた。というほどのことでもないが。