2016年7月3日日曜日

今日のパン、明日の糧より

下へ向かって   6/28

 私たちの社会は、前進したいなら、上に向かって進まねばならないという示唆に満ちています。頂点を極める、脚光を浴びる、記録を破る。これらは人々の注目を集め、新聞の一面を飾り、金と名声という報酬を私たちに与えてくれます。
 イエスの生き方は根本的に違っていました。それは上に向かって行くのではなく、下へ向かって行くものでした。底辺を目指し、舞台のセットの後ろに隠れ、一番最後の場所を選び続けることでした。イエスの生き方は、なぜ選ぶに値するのでしょうか。イエスがとったのは、み国に到る道であり、永遠のいのちに到る道だからです。


十字架を背負う   6/29

 イエスは言われた。「私について来たい者は……自分の十字架を背負って、私に従いなさい」(マタイ16・24)* イエスは「十字架を作りなさい」とも「十字架を探しなさい」ともおっしゃいませんでした。私たちの誰もが負うべき十字架をもっています。作ったり、探したりする必要はありません。私たちの十字架は十分重たいのです。それでも、それを進んで自分の十字架として認め、背負う意思があるでしょうか。
 勉強が不得意であったり、障害を負っていたり、あるいは鬱状態で苦しんでいたり、家庭でいざこざがあったり、暴力や虐待の犠牲者であったり、これらのうちのどれ一つとして、私たちが選んだものではありません。しかし、これらこそが私たちの十字架です。これらを無視し、拒絶し、退け、憎むことも出来ます。けれども、これらの十字架を背負い、その十字架とともにイエスに従うことも出来るのです。


家に帰る   6/30

 放蕩息子の譬え(ルカ15・11-32)* には、二人の息子が出てきます。弟は家から逃げて遠い外国に行きますが、兄は家にい留まり、するべき自分の仕事を続けます。弟は酒と女で身をもちくずし、兄は、一生懸命働き、仕事をすべて忠実に成し遂げることで、自分を疎外しています。二人とも失われたものでした。父親は、二人のことを惜しみます。二人の内のどちらとも、望むような親しみの温もりを味わうことがないからです。
 欲望に身をもちくずすにしろ、冷たく言われた通りのことをするにしろ、それでは私たちは真の神の子となることはできません。弟のようであれ、兄のようであれ、私たちは神の無条件の愛に包まれて心が安らぐことの出来る家に帰らなければなりません。