2016年7月14日木曜日

今日のパン、明日の糧より

傷ついた癒し人   7/8

 誰も傷つくことから逃れられません。肉体的にであろうと感情的にであろうと、精神的にであろうと霊的にであろうと、私たちの誰もがみな傷を負っています。大切なことは、恥ずかしい思いをしないですむように「傷をどうやって隠せるか」ではなく、「私たちの傷をどうやって人々のために役立てられるか」という問いかけです。私たちの傷が恥の原因ではなくなり、癒しの源となる時、私たちは傷ついた癒し人となったのです。

 イエスは、神から来た傷ついた癒し人です。イエスの傷によって私たちは癒されます。イエスの苦しみと死によって、喜びと命がもたらされました。イエスの謙遜によって栄光がもたらされ、イエスが人々から拒絶されたことで、愛の交わりであるコミュニティーが生まれました。イエスに従う者として、私たちはまた、自らの傷によって人々に癒しをもたらすことが出来るでしょう。


自分の傷を第一に   7/9

 寂しさや落胆、恐れを伴った自分の経験を、他の人々への送り物とすることが出来ます。心のこもった関わりに恵まれた時に特にそうです。私たちの傷が開いたまま血を流し続けている限り、人々は怖がって遠ざかってしまいます。けれども、誰かが私たちの傷を丁寧に手当てしてくれると、私たちも人々も、もはやその傷を怖がらなくなります。

 ある人が癒しの存在として私たちと共にいてくれるのを経験すると、私たちにも人を癒す賜物があることを発見できます。その結果、自らの傷のゆえに、私たちは傷ついた兄弟姉妹と深く連帯することが出来るようになります。


傷を持って聴く   7/10

 苦しんでいる人と連帯するとは、私たちが自分の苦しみについてその人と語り合うことではありません。自分の傷について話したとしても、苦しんでいる人にはほとんど助けになりません。傷ついた癒し人とは、自らの傷について語らずに、苦しんでいる人に耳を傾けることの出来る人のことです。つらい鬱状態をくぐり抜けてきた時、私たちは自らの経験について触れることなく、深い思いやりと愛をもって、意気消沈している友人に耳を傾けることが出来ます。たいていの場合、苦しんている人の注意を私たちに向けないようにする方がよいでしょう。包帯に隠された私たちの傷が、私たちが全存在を持って人々に耳を傾けるのを可能にしてくれるようになることを信じることが大切です。それが癒しです。