2016年7月3日日曜日

ダッカ事件に思う

バングラデシュであのような事件がと思う日本人は多いのではないだろうか。バングラデシュはイスラム教国でも割と温和な国民と聞いていたから驚いている。シャプラニールもあそこに事務所を構えて援助とともに自立のサポートやっている。これからが気になる。

非イスラム教徒や外国人を狙った犯行と聞く。自分たちと違った者を排除するというのではなく殺戮するということは許しがたいことである。しかし、実際のところどうなのかかわからないが貧しい国が豊かになっていくその過程において(みんなが貧しければそれほどでもないであろうが)、貧富の差は広がって行くであろうその中で矛盾、不公平さは広がって行く、それは恩恵を受けない人々に決して良い感情を与えないことは容易にわかる。富は人々を豊にするように見えて実は人々の心を貧しくしているように思える。

かつても今も「アベルの血」は流されている。そしてこれからも多くの血が流さて行くであろう。このようなことは、かつてキリスト教国と言われた国々もやっていたことでもある。そのことで悔い改めをしていたであろうか?それがなければそれは実現しないであろう。勿論非キリスト教国も然りである。日本の憲法も個人から国体に変わろうとしている。そうなれば国体の前に個人なんて歯牙にもかからない。国体の護持と言いながら天皇家を利用してその結果は国土は焼け野原となったのにまた同じ過ちを繰り返そうとしている。「同じ過ちを繰り返しません」というのは「原爆記念日のセレモニー」なのだろうか。時には、イデオロギーや国体は人を抹殺する。そして人を大切にしないイデオロギーや国は滅びる。聖書が語っていることであると私は思う。しかし、ある自治体では十分働けるのに生活保護を受けてパチンコ通いしている人たちがいると聞いて考えてしまうが…。

heb:12:24
さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。

アベルの血ではなく、尊い御血が流された。そして「アベルの血」に楔を打ち続けている。真の解決は主の来臨に委ねなければならない。