2016年7月31日日曜日

今日のパン、明日の糧より

7/29   霊的な乾き

 霊的な生活において、時にひどく渇き切った状態を体験します。祈る気がしなくなり、神の臨在の実感がない、礼拝にうんざりし、神やイエス、聖霊について信じていたことがすべて子どものおとぎ話とたいして違わないとさえ思えてきます。
 そんな時、このような気持ちや考えの大部分は、ただの気持ちや考えに過ぎないこと、神の霊は私たちの気持ちや考えを越えたところにおられることを思い出すことが大事です。感情や思いの中で神の臨在を体験できるというのは大きな恵みです。しかしそういう体験が与えられない時、神がおられないのではありません。それはしばしば、さらに忠実であるようにと、神が私たちに呼びかけておられるということのようです。神との新しい親しい関係へと成長していけるように、霊的修練をしっかりと身につけなければならないのは、まさに霊的に乾き切っている時でしょう。


7/30   二つの孤独感

 霊的な生活においては二種類の孤独を区別する必要があります。最初の孤独感では、神に触れることがなく、帰属意識や親しみ、家族の味を与えてくれる人やものを不安げに探し回っている自分を体験します。第二の孤独感は、私たちの感情や思いの及ばない、深く偉大な神との親しい交わりから生まれてきます。
 この二種類の孤独感は、目の見えない二つの状態と見なすことが出来るでしょう。第一の目の見えない状態は光がないため、第二の目の見えない状態はまぶしすぎる光のために起こります。第一の孤独感からは、信仰と希望とをもって抜け出すように努め、第二の孤独感は、愛の内に抱きしめることが大切です。


7/31   イエスの孤独

 死が近づいた時、イエスはもはや神の臨在を実家することが出来ませんでした。イエスは叫ばれました。「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(マタイ27・46)。それでも、神の愛の内にご自分と共におられるという真理にすがり続けて言われました。「父よ、私の霊をみ手にゆだねます」(ルカ23・46)。
 十字架上で味わわれた孤独感を通してイエスは復活へと導かれました。年をとるにつれ私たちはしばしば、このイエスが味わわれたのと同じ孤独感を通して、彼に従うように招かれます。この種類の孤独感においては、神があまりにも近くにおられるため、私たちの限られた心や精神では経験しきれないのだと思います。このような時が来たら私たちもイエスがなさったように、私たちの霊を神にゆだねることが出来る恵みを祈り求めましょう。