2016年9月5日月曜日

明治のキリスト者

元に3枚のDVDがある。

「石井のおとうさんありがとう」 岡山孤児院ー石井十次(じゅうじ)の生涯ー

「筆子その愛」―天使のピアノー 滝乃川学園物語

「大地の詩」―留岡幸助物語―である。

現代ぷろだくひょん制作

この三人は似たような年代に生まれている。

石井筆子(1861-1944)、

石井十次(1864-1914)、

留岡幸助(1865-1934)


石井筆子は、

肥前国大村藩士の渡辺清・ゲンの長女として生まれる。父・清は幕末から明治維新にかけての志士で、明治政府では福岡県令元老院議官等の要職を歴任し、男爵に叙せられた。筆子の叔父・渡辺昇も同じく幕末から明治維新の志士で坂本龍馬と親交を持ち、薩長同盟の周旋をした功労者である。渡辺汀は弟(父の養子)で滝乃川学園の3代目学園長である。筆子は東京女学校を卒業後、皇后の命によりヨーロッパに留学。帰国後、筆子は津田梅子と共に華族女学校の教師となり、筆子はフランス語科目の授業を受けもった。そのときの教え子に貞明皇后がいた。また鹿鳴館の舞踏会にも度々参加し、「鹿鳴館の華」と評判だった。さらに静修女学校の校長に就任し、近代女子教育者としても活躍した。静修女学校は後に津田が主宰していた女子英学塾に引き継がれ、現在の津田塾大学となる。筆子は同郷の高級官吏・小鹿島果と結婚するが、生まれた3人の娘のうち2人は知的障害があり、あとの1人は虚弱で出産後ほどなく死亡した。その上、1892年に夫の果が35歳の若さで死去する。その後、娘を石井亮一が主宰する滝乃川学園に預けていた経緯から学園に経済的・精神的な援助を惜しまないようになる。その過程で園長の亮一の人間性に惹かれ、再婚。知的障害者の保護・教育・自立に献身する。筆子は肥前国大村藩士の渡辺清・ゲンの長女として生まれる。父・清は幕末から明治維新にかけての志士で、明治政府では福岡県令元老院議官等の要職を歴任し、男爵に叙せられた。筆子の叔父・渡辺昇も同じく幕末から明治維新の志士で坂本龍馬と親交を持ち、薩長同盟の周旋をした功労者である。渡辺汀は弟(父の養子)で滝乃川学園の3代目学園長である。筆子は東京女学校を卒業後、皇后の命によりヨーロッパに留学。帰国後、筆子は津田梅子と共に華族女学校の教師となり、筆子はフランス語科目の授業を受けもった。そのときの教え子に貞明皇后がいた。また鹿鳴館の舞踏会にも度々参加し、「鹿鳴館の華」と評判だった。さらに静修女学校の校長に就任し、近代女子教育者としても活躍した。静修女学校は後に津田が主宰していた女子英学塾に引き継がれ、現在の津田塾大学となる。筆子は同郷の高級官吏・小鹿島果と結婚するが、生まれた3人の娘のうち2人は知的障害があり、あとの1人は虚弱で出産後ほどなく死亡した。その上、1892年に夫の果が35歳の若さで死去する。その後、娘を石井亮一が主宰する滝乃川学園に預けていた経緯から学園に経済的・精神的な援助を惜しまないようになる。その過程で園長の亮一の人間性に惹かれ、再婚。知的障害者の保護・教育・自立に献身する。(ウェキペデアより


石井十次は、

岡山医師を目指して、岡山医学校(現在の岡山大学医学部)の医学生として研修中であったが、ある孤児を引き取ったことを経緯に、信仰的覚醒から孤児事業に専念するために医師として働くことを断念した。そして英国キリスト者ジョージ・ミュラーをモデルにして、キリスト教信仰に根ざした岡山孤児院を創設して[1][2]、生涯を孤児救済に捧げた。岡山孤児院はすでに存在しないが、その流れをくむ石井記念友愛社宮崎県)と石井記念愛染園大阪府)が、各種の福祉活動をおこなっている。(ウェキペデアより)


留岡幸助は、

岡山県高梁市に生まれる。吉田万吉、トメの子の6人兄妹の次男として生まれ、生後まもなく、留岡家の養子となる。留岡家は、米屋を営んでいた。子供同士の喧嘩で武家の子供を怪我させ、商いに支障が出て、養父から厳しい折檻を受け、家出。高梁にある日本基督組合教会キリスト教会に逃げ込み、その伝で福西志計子の元に匿われ、さらに福西により岡山市にいた金森通倫の元に保護され、のち18歳で上代知新牧師より正式な洗礼を受ける。

徴兵検査は不合格、1885年(明治18年)同志社英学校別科神学科邦語神学課程に入学。新島襄の教えを受ける。京都での学生時代、徳富蘆花と交友を結ぶ。彼の小説『黒い眼と茶色い眼』の中に登場する「邦語神学の富岡君」は留岡がモデルだといわれる。1888年(明治21年)卒業後、福知山で教会牧師となる。1891年(明治24年)北海道市来知(いちきしり)の空知集治監教誨師となる。1894年(明治27年)から1897年(明治30年)にかけてアメリカに留学。コンコルド感化監獄で実習、その後、エルマイラ感化監獄ではブロックウェーに直接指導を受ける。帰国後、国内でも感化院(家庭学校)の設立のために奔走する。1899年(明治32年)、ようやく資金の目処もつき、巣鴨に土地を購入し、家庭学校を設立。[2]留岡は、また牧会者として霊南坂教会に所属し、「基督教新聞」の編集を行った。1900年(明治33年)、最初の妻であった夏子と死別。のち高梁時代の伝で順正女学校卒業後、巣鴨家庭学校に就職していた寺尾きく子と結婚。1914年(大正3年)、北海道上湧別村字社名淵(かみゆうべつむらあざしゃなぶち)に国有地の払い下げを受けて、家庭学校の分校と農場を開設。1915年(大正4年)11月9日、藍綬褒章を受章[3]1922年(大正11年)には神奈川の茅ヶ崎にも家庭学校の分校を作るがこちらはまもなく関東大震災で建物が倒壊して、1933年(昭和8年)閉校となる。留岡はこの間、北海道と巣鴨を行き来しながら、二つの学校を指導監督する。

1931年(昭和6年)巣鴨の家庭学校本校で、奉教五十年を祝う感謝の会が開かれ、彼は徳富蘇峰と会談中に脳溢血で倒れる。1933年(昭和8年)にきく子夫人が死去。留岡は家庭学校の名誉校長に就任し、現場から退く。二代目の校長に就任したのは、牧野虎次である。1934年(昭和9年)2月5日、旧友・徳富蘆花の住まいに程近い東京・上祖師谷の自宅で死去。(ウェキペデアより)


当時の状況はほとんど知らないが江戸から明治に変わろうとする時代、混沌とした時代であろうことは想像を難くない。生活も厳しく多くの人にとっては忍従の生活ではなかったではなかろうか。自分が生きるのに精一杯の時代に誰からも顧みられない否疎外され疎まれている子らに目を注ぎ生きる希望を与えてくれていたことは今日では考えられないほどの大きい出来事ではなかったであろうか。同じぷろだくしょんから「地の塩 山室軍平」が間もなく上映されるようである。救世軍の山室軍平たちはいのちをかけて廃娼運動の働きをされた。これもまた社会の恥部であり、必要悪のように求められていたことでもある。しかし、一人の女性の人格を思えば許されることではない。彼らは皆キリスト者である。イエス様がサマリヤの女やベテスダの池のほとりに座っている病人に目を注いだあの視点と同じ視点をもって彼らを見ている。私が見失っていた視点である。

luke:19:10人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」