2016年9月10日土曜日

祈り

祈りのスケジュールというと可笑しいが曜日ごとに祈りの課題を変えて祈っている。土日は課題無しのフリーにしている。しかし、きちんと守ってやったことはない。特に後半はおろそかになりがちである。祈りの内容は執り成しが主で個人的なことは少ない。と書くと何か偉いように見えるが内容はお粗末そのものである。

聖書の中には神を揺り動かすような祈りを散見する。しかし、よく見ると神との対話のような気もする。
ある時は神の語りかけに身を震わせ、また神に語りかけている。ロトたちのために執り成すアブラハム、
心を注ぎ出すようにして神に語りかけているハンナ。神の語りかけに恐れおののきつつそれを拒むモーセ、幼児のように罪を告白するダビデ、ソロモンは…。その状況状況によって多種多様である。

以前から祈りは「神への語りかけ、交わり」と捉えている。喜びの中に語りかけ、感謝の中に語りかけ、悩みの中に語りかけ、罪に呻吟するときに語りかけ、どのように成すべきか行くべきかと問う時に語りかけ、聴いてくださる方を知っていることは大きな恵みである。しかし、語りかけは貧相であり、交わりも然りである。幼児サムエルには「主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」とある。たとえまれであっても「主のことば」はあった。私には?…と思ってしまう。時には語りかけても神は沈黙されているかのように思える時が多々ある。老眼の度が進み、若い時からの難聴に老いが加わっている現在、この目がこの耳で際機能が落ちているのをみればそう簡単に神(主)の声は聞こえるわけがない。しかし、今日も語りかける…。しかしサムエルのように「主よ。お話しください。しもべは聞いております」とは語りかけない。それは聞き従うに繫がり聞き従えないから何を語られるか怖いからである。