2016年9月20日火曜日

聖書雑感

自分が信仰を持った頃、「福音」はキリスト教(当時キリスト教という言い方さえも批判されていた。キリスト教を信じるのではなくキリストを信じるとの理由で、言葉に拘るほど誰も-我がグループ以外のキリスト者及びノンキリスト者はその区別の意識はない)の専売特許のような言い方をされていた。たとえば難病に効く薬が開発されて「何々病の患者に福音」とか報じられるとそのような用い方を批判していた。しかし、ギリシャ語のエウアンゲリオン「福音」すなわち「良い知らせ」は一般的な出来事でも使われる言葉のようである。「福音」の内容がどのようなものであるかは色々あって当然といえる。

逆に色々なところで「福音」という言葉を用いられたら聖書が語る福音はいかようなものであるかがわかるのではないだろうかと思うことがある。それとキリスト者が用いる「福音」も幅があるように思える(これは日本語のあいまいさから来るものもあるのかなと思っている)。というよりある意味で「福音」理解の多様性?を感じる。それは真に「福音」を理解していないということにもつながるのかなと思うこともある。

キリスト者が「福音」「良い知らせ」という時は「イエス・キリストがわたし(あなた)の罪の身代わりに十字架に架って死んでくださった。そのことを信じるだけで罪が赦され、永遠のいのちを頂くことが出来る」ということがである。勿論、三日目の復活を含めてのことであるが。

しかし、マルコ伝には「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マル1:15)とある。黒崎幸吉の注解では、

註解: 「時」は神の国の到達に至るまでの時期を指す、この時が満ちて次に来るものは神の国、神の支配である。この神の国に入るには二つの条件を要す。その一はヨハネの教えし悔改め、その二は福音を信ずることである。 とある。

ここでは「良い知らせ」は「神の国の到来」ということになる。自分が救われるのも「福音」ですがこの地上に「神の支配」が訪れるというのも「福音」であることを示唆している。福音に二つあるのかと思われるが福音の両側面を語っていると理解した方がよいように思う。

福音が語られる時、多くの場合「神の国」が欠落しているように思う。これは「福音」を正しく伝えていないことにつながるのではと思っている。個人の救いと神の国の到来、スケールが違う。アブラハムから選ばれた者の歴史がある。神に選ばれた民、イスラエル。民族を超え、救われた群れとしての教会。個々に神の国の予表があるように思う。