2016年10月1日土曜日

今日から10月

台風の影響かこのところ愚図ついた天気が続いている。9月の初めは暑い日が続いて汗ばむくらいだったが今日この頃は長袖のシャツを着ていてもその上にもう一枚着たいくらいの気候になって、9月の初めと終わりではこうも違うものかと驚いている。いつものことなのだろうがそれでも毎年陽気が少しづつ違うのを今年あらためて感じた。多分畑をやって野菜の育ち具合を見ているせいかもしれない。私たちも同じような繰り返しの中で微妙に違う毎日があるのと同じなのかもしれない。

最近、自然の営みは自然ではないことを教えられる。上記のような出来事だけでなく、あらゆる変化の中でそれを受けとめておられる方がおられることを実感するのである。実は自然は自然ではないのである。そこには美しいこときれいなことだけでなく、汚く、醜いことを含めてである。私たちは受け入れるキャパシティが人によって違うが、でも似たり寄ったりであろう。すべてを受け入れるということはない。しかし、神は、創られたすべてを「良し」として受け入れたようにではなく限定的ではあるがある意味で受け入られていると信じている。現首相に申し訳ないが「美しいニッポン」と叫んでも内実は…、そして世界を見渡せば飢饉や殺戮が繰り返されていてもである。

isa:63: 9
彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。

とイザヤは神がどのような方かと語っている。これは神がイスラエルの民に対する思いを吐露しているが新約の時代になって、これをすべての民と解釈してもいいのではないだろうか。地上がパラダイスであるなら神はそれほど苦労はされないであろう。ましてやイエス様が来られる必要もない。

弟が結婚する時、嫁さんの実家に挨拶に行った。しかし、私には世間の要領がわからず結局兄が来なければならなくなった。これを思い出して、人では解決できない問題が地上にあるからイエス様が来られた。私では役に立たないように人にでは解決できないのである。

キリスト者でもパリサイ人や律法学者のような視点でしか見ることができず「上から目線」になってしまう。イザヤが語ったようにイエス様はこのような歩み方しかできないのである。罪を犯すことができないように「上から目線」なんてできないのである。だから自分の努力ではできない「悔い改め」ができる。いつも我が傍らにおられるイエス様を…。