2016年10月11日火曜日

今日のパン、明日の糧より

ご自身を与えられたイエス   10/1

 友人を食事に招待する時、私たちは体に必要な食べ物を供するだけではありません。友情、交わり、楽しいおしゃべり、和やかで親しい関わりを供します。「ご自由にどうぞ。もっと召し上がれ、遠慮なさらないでもう一杯いかが」と言う時、私たちは客に食べ物と飲物を進めるだけではなく、私たち自身をも差し出しています。霊的な絆は深められ、私たちは互いの食べ物、飲み物となるのです。
 このことが、最も完成した形でなされるのが、聖餐式で、イエスがご自身を私たちの食べ物、飲み物として与えてくださる時です。ご自身の体と血を私たちに与えてくださることで、イエスは、想像を超えるほどの親しみに溢れる交わりを、私たちに提供しておられるのです。それは、神の交わりです。


最も人間的で最も神的な仕種   10/2

 エマオへの途上でイエスが一緒に歩かれた二人の弟子たちは、イエスがパンを割かれた時イエスであることが分かりました。パンを割くということ以上に、一般的で日常的な仕種が何かあるでしょうか。それは、あらゆる人間の仕種の中で、最も人間的なものでしょう。それはもてなしの仕種であり、友情、思いやり、一緒にいたいという願いの仕種です。パンを一つ取って、祝福し、割いて食卓を囲んでいる人々に与えることは、一致、交わり、平和を表します。イエスがそうなさる時、イエスは最も日常的でありながら、最も非日常的なことをなさっておられます。それは最も人間らしい仕種であり、最も神らしいなさり方でもあります。
 私たちの間にキリストがおられるのはどのようにして分かるでしょう。それは、この最も日常的で、最も人間的な仕種によります。それは大いなる神秘です。
 神が一番身近に感じられる時は、私たが最も人間らしい時といえましょう。


無防備と信頼の場所   10/3

 共に食卓を囲み、一つのパンから食べ、一つの杯から飲む時、私たちはお互いに一晩無防備な状態にあるといえるでしょう。背中に猟銃jを背負ったり、あるいは腰に拳銃をぶら下げていては、仲良く一緒に食事をすることはできません。パンを友に割く時、私たちは武器を戸口におき―-物質的な武器であろうと心理的な武器であろうと、傷つくことを恐れずに、互いに信じあう場に入ってゆきます。
 聖餐の美しさとは、まさに無防備のままの神が無防備な人々に、一つ所に集まり心を許してその場で仲良く食事をするように招いてくださる、ということです。パンを割いて互いに与える時、恐れは消え、神は身近な親しいものとなります。