2016年10月11日火曜日

聖書雑感

通読もヨブ記を読み終えた。注解付き新改訳聖書の諸論には「本書は、『正しい人がなぜ苦しまなければならないのか』という命題をテーマにした書物である。」とあった。駆け足気味にモーセ五書、歴史書、そして諸書と読んでいくと、そこに旧約の流れを見る思いがする。そして以前と違った観点に立っていることを感じる。

聖書を読み始めて最近まではバビロン捕囚から帰還した民やエズラ、ネヘミヤの姿に感心したが今は何故、混血の子や異邦人の妻を離縁しなければならなかったのかと疑問に思う。勿論異教の影響を懸念してのことであろうことはよくわかる。モーセ五書、歴史書と見て行くと異邦人による影響が大きくなっているようにも見える。特にソロモンを始めそれ以降のイスラエルの民を見るとそれがよくわかる。異邦人というよりイスラエル民が変化しているのかもしれない。マタイの福音書のイエス様の系図に五人の女性が載っている。最初のタマルはどのような人か分からないが夫エルの母親はカナン人であり、ラハブ、ルツは明らかに異邦人である。律法や血統に拘っている彼らと好対照だ。


イエス様と敵対していた律法学者はこの流れの中にあるようなことを聞いたことがある。文書で残されたものは人を束縛していく様を見るが律法がいい例だ。ユダヤ人のトーラーは煩雑であるようなことを聞いている。これもその延長線上にあるのであろう。イエス様は律法の中で、たいせつな戒めはどれですかとの問いに、

matt 22:37-40

そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」


と答えている。
律法はこの二つの戒めに集約さていると教えている。文書化されたものは後には人を束縛するものになってしまうことは歴史が教えてくれている。

ヨブ記もまた同じように感じる。ヨブのつぶやきは現代人の多くがつぶやいていることばではないだろうか。三人の友人の言葉も熱心で忠実なキリスト者が叫んでいる言葉ではないだろうか。熱心でない私もよく叫び、自分の叫びに納得している。自分が三人の友人とダブっていることを教えられ、恥いるばかりである。ここでは労りと愛の言葉が必要なのであろう。

rom:12:15
 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣
 きなさい。

とパウロは語っている。