2016年10月6日木曜日

今月のみことばより

「しかし、主は『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、私の力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(コリント人への手紙第二 12章9節)

 この世に生きる限り、苦難と無縁の人はいない。私たちは何とか苦難から逃れたいがために、宗教に救いを求め、将来の安心を買おうと、健康維持に励み、保険や資産運用に期待する。一方、クリスチャンはどうだろうか。キリストを信じたら、健康と繁栄が保証されるのだろうか。驚いたことにそうした教えを売り物にする教会には人が溢れている。神は、私たちが健康で経済的に豊かな生活を望んておられる、と臆面もなく主張する。
 しかし、もしそうだとすると、キリストご自身が貧しさの極みを経験されたことを何と説明するのだろう。また迫害に遭ってきた何百、何千というクリスチャンの存在をどう説明したらよいのだろう。
 
 ジョニー・エレクソン・タダは、17歳のとき、浅瀬とっしらずに海に飛び込み、首から下の自由を失った。クリスチャンであった彼女は、奇跡を祈ったが、今日まで癒されることはなく、慢性的な痛みと一切の身の回りを人に頼らなければならない不自由の中に今もいる。
 ところが、何もできないように見える彼女を通して、数えきれないほどの人々が神に望みを見いだした。つまり、いつかは衰えてなくなる一時的な健康やいのちを頼りとする生き方ではなく、たとえそれがなくなっても失われない確かな希望がジョニーにあることが人々にわかったからである。
 事故から50年が経ったが、彼女の働きは広がる一方である。著書35冊を世に出し、また世界中の何百万という、障がいをもった人々とその家族に希望の光をともしているばかりか、アメリカでは障がい者のための法律の改正にも多大な貢献をした。
 苦難に遭わないことを誰でも望む、しかし、苦難に遭っても、神に望みをおいて絶望しない、というのは、信仰がなければできることではない。「苦難という牧羊犬に追いかけられて、私は神のもとに連れてこられた」とジョニーは言う。キリストにあって苦難とともに歩む、というのは、神の特別な召しがある証拠なのかもしれない。「苦難の神学」とは今秋から米国ダラス神学校で始まるジョニー担当の口座名である。

            10月長野集会月報より