2016年10月12日水曜日

今日のパン、明日の糧より

イエス、私たちの食べ物、飲み物   10/4

 イエスは神のみ言葉です。天から下り、聖霊の力によって処女マリアから生まれ、一人の人間となられました。これは具体的なある場所、ある時に起こったことでした。けれども私たちが聖餐を祝うごとに、イエスは天より下り、パンとぶどう酒をとり、聖霊の力によって、私たちの食べ物、飲み物となってくださいます。実に、聖餐を通して、どのような時でも、神が人となられたという出来事は起こり続けているのです。
 時に私たちは「昔生まれてイエスや弟子たちと一緒だったらよかったのに」と思うかもしれません。けれども実は、イエスはご自分と同じ時期に生きていた友よりも、さらに私たちの近くにいてくださいます。今日イエスは私たちの日ごとのパンになられたのですから。


魂の同伴者   10/5

 エマオの弟子たちの家でパンを割かれたときに、二人の弟子たちはそれがイエスだと分かりました。その時、イエスの「姿は見えなく」(ルカ25・31)なりました。イエスだと分かることと、イエスの姿が見えなくなるというこの二つのことは実は同じ一つの出来事です。なぜでしょうか。それはキリストである彼らの主イエスが、自分たちの中に生きておられること、そしてそれゆえに自分たちがキリストを運ぶ者となったのだということが、弟子たちに分かったからです。つまり、イエスはもはや、彼らが話しかけたり、助言を得たりする見知らぬ人や客や友人として、テーブルの向こうに座っているのではありません。イエスはこの弟子たちと一つになられたのです。
 イエスはご自身の愛の霊を二人に与えられました。彼らの旅の道連れであられたイエスは、今や、彼らの魂の同伴者となられました。二人は生きています。けれども、生きているのは彼らではなく、ふたりのうちにあっていきておられるきりすとなのです(ガラテヤ2・20)。


私たちの内にあって生きておられるイエス   10/6

 聖餐の食卓を囲み、「これはキリストの体、キリストの血」と言って一つのパンから食べ、一つの坂月から飲む時、私たちは今ここにおいて生きているキリストとなります。
 イエスを信じるとは、神のみ子イエスが昔生きておられ、偉大な奇跡を行い、素晴らしい教えを説き、私たちのために十字架の上で死なれ、墓から復活されたということを私たちが信ずべきこととして承諾するということではありません。イエスを信じるとは何よりもまず、イエスが私たちの内に生きておられ、私たちの内にあって、私たちを通して神から受けた使命を成し遂げようとしておられるという真理に、あますところなく自分自身をあけ渡すことです。私たちの内にキリストが生きておられるということを、このように霊の深みにおいて知るならば、イエスの受肉、死、復活という神秘が歴史の中で実際に起こったのだということを心の底から信じ、言葉で言い表すことができるようになるでしょう。歴史を生きられたキリストを私たちに開き示されるのは、実に私たちの内に生きるキリストなのですから。


私たちの間に生きておられるイエス   10/7

 聖餐は、イエスが私たちにとって一番身近な方となって共にいてくださる場です。というのも、イエスが私たちの「内」にキリストとなって生きておられるばかりか、キリストとして私たちの「間にも」生きておられるからです。エマオで、パンを割いた時にイエスであると分かった弟子たちが、互いの間に新しい親しみを見出して、共に友人たちのところへ戻って行く勇気を得たように、イエスのからだと血を頂いた私たちも、お互いの間にあったらしい一致が生まれたことに気づくでしょう。キリストが私たちの内に生きておられることが分かると、キリストは私たちの間にも生きておられることが分かるようになります。そして同じキリストがこの世界に親しく現存しておられることを証しするものとして、私たちを一つの体にしてくださるということも分かるようになるでしょう。