2016年10月18日火曜日

今日のパン、明日の糧より

奴隷状態から呼び出される   10/16

 教会は神の民です。「教会」にあたるラテン語‟ecclesia”は、ギリシャ語の‟ek”(~から、~の)と‟kaleo”(呼ぶ)から来ています。奴隷状態から自由へ、罪から救いへ、失望から希望へ、闇から光へ、死を中心にした存在から生に集中した存在へと呼び出された神の民、それが教会です。
 教会について考える時、私たちは共に旅を続ける人々の集団を考えます。あらゆる年齢、人種、社会からなる女、男、子どもたちを私たちの視座におき、それらの人々が永遠の住処に向かって、長く面倒の多い旅をつづけながら、互いに支え合っているであろうことを思い巡らすことが大切です。


教会、しみなくまた汚れたもの   10/17

 教会は聖であると同時に罪深いもの、しみがないと同時に汚れています。教会はキリストの花嫁です。キリストは教会を清めの水で洗い、「しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない」(エフェソ5・26-27)ものとしてご自身のもとに迎え入れたのです。しかしまた、教会は罪深く戸惑い、苦しみ悶える人々の集まりです。これらの人々は絶えず肉欲と貪欲の力に誘惑され、常に対立と競争とに巻き込まれています。
 教会が一つの体であるという時、私たちは、洗礼と聖餐を通してキリストの似姿とされた傷のない聖なる体のことだけを話しているのではありません。教会のメンバーである人々の傷ついた体のことも心に留めています。このように二つの考え方、言い方の両方を大切にする時に初めて、私たちはイエスに真に従う者の集まりである教会に生きることが出来るようになるでしょう。