2016年10月25日火曜日

観念的信仰?

月一で東京からMファミリーが来てくださる。先日も前日は山梨の玉穂にある集会で奉仕されて来られたから少しハードかなと思った。「十年一日」という言葉があるが私たちの集会はまさにその通りで人も内容もあまり変化のない小さな集会である(と言っても地方の常で老齢化は確実に進んでいるが)。それでも今回は桐生集会のM姉のおねいさんとお母さんが伊那から来てくださった。M姉の実家が伊那にあり正月には家族で実家に集まり、日曜日があると礼拝のために岡谷まで来て下さっている。その時にお二人は何度か一緒に来られていたがM兄のメッセージを聞くのは初めてである。分かりやすいと言ってくれて感触はよかったからこれからもとの思いは皆同じ。12月早々にクリスマス集会が行われるので会場であるハ-モ美術館には来たことがあるとのことで期待し祈っている。「十年一日」もこういうかたちで変化があるのかなと思った。

「十年一日」と「日々変化」している集会と熱心なM兄、この落差に正直戸惑う思いもある。信仰は頑張れるものではない。その人の有様が信仰の有様に思える。ということは結構お恥ずかしいの一言である。


以前病院伝道をしていた時、そこは先月話題になった横浜の○○病院のようなところで家族もほとんど来なくて偶にでも来ればいい方そんな感じの病院だった。そこに年配の女性が入院していて訪ねていたがその方は以前に教会に集っていたらしく聖書のことは少しわかっている方だった。聞き方の方が多かったがこの方は「日々新たなり」が口癖だった。今思えばあの方の年代になっているのかなぁと思う。老いても「日々新たなり」は大切である。

と思いつつも育った環境がファンタメンタルな世界で生まれ育っているからかどこか固い、あれはダメこれはダメで育った所為かどこか教条的であり観念的である。型にはまった信仰、楽でいいけど柔軟性がなくいのちがない。良きサマリヤ人のたとえ話のごとく、怪我をされた方のいのちの心配より、自分が汚れないようにと避けて通った祭司やレビ人と同じなのである。自分で嫌だなぁと思いながらもその枠から抜けることができない。

そんな我が信仰にM兄のメッセージは風穴を開けてくださる。聞きながら頷き、そして新しい発見でもするかのように教えられる。聞いた言葉はどんどん忘れていくがエキスだけは残っている。いのちを受けて「日々新たなり」と頑固な観念的信仰が少しづつ崩されていくような気がする。

job:38: 2
知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか
とヨブに語りかける主はどのように語りかけるのか。
john 5: 6
イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
このような語りかけがあったら素直に応答したいものである。