2016年10月2日日曜日

キリスト者であるということ

「釜ヶ崎と福音」
副題「神は貧しく小さくされた者と共に」
本田哲郎著 岩波現代文庫

この本の表紙に「炊き出しの列に並ぶイエス」の木版画が使用されているというので買って読んでいる。(新版になったので木版画は序文に載っていた)

著者は釜ヶ崎で働いているカトリックの神父である。このような働きはカトリックにはかなわない。釜ヶ崎という特異?な地域で働いていると一般の人とは違う視点があるように思える。釜ヶ崎は東の山谷、西の釜ヶ崎と言われたところであり、付け加えれば横浜の寿町も入るか。昔はドヤ街と言われていたが今は何と言っているのだろう。山谷はもうこの呼び方はしていないようだ。

その山谷の一角に上総屋という飲み屋さんがあって、TVの修理をしたくて転職して初めて修理に出掛けたお店だった。TVのイロハは分かっても修理の実務が皆無だったので恐る恐る伺ったのを昨日のように思い出す。勿論、わからなくて言い訳した言葉は忘れてしまったがどやされるかと覚悟したら店の人もお客さんも労をねぎらってくれてホッとしたことを今も鮮明にお思い出す。翌日には修理は出来たが。

その時、山谷というある種の恐れを持っていたが仕事を終えてさっぱりした格好を見、交わす言葉もやさしく、自分よりもずっとこざっぱりしているじゃんと思ったことが今も印象に残っている。裏通りにまわれば怖さがあるがこのことで山谷の印象は変わった。それからしばしば修理に行くようになったこともあり、お客さんとも修理をしながら言葉を交わすようにもなった。

このすぐ近くに鐘紡が自社の遊休地を自動車学校にして、その一期生として運転の教習を受けた。隅田川を渡ると鐘ヶ淵なる地名があるがカネボウはここの地名に由来しているらしい。路上教習の何回目かの時から若い先生がリクライニングにして寝て「いつものコース走って」と言われ、間違って山谷の道路に出てしまったことがあった。広い道路だが彼が気がついて「早くでろ」顔色を変えて言われて勝手知ったる我が家ではないが事情を説明したら安堵した顔をしたのを思い出す。はるか昔のことだが懐かしい。

今はどうなっているかその後はホームレスなる言葉が生まれ、あの頃でも路上にたむろしていた人はいたが今は山谷と言ってもまだ生活の厳しいテントをネグラとしている人たちもいる。ある意味で施しを受ける立場かもしれない。「炊き出しの列に並ぶイエス」はまさに彼らと同じところに立っている。彼らにとっては共感するものがあるだろう。

細かいことは忘れたが戦前の話である。裕福な家で育った若者(今でいう大学生くらいか)たちが炭鉱夫たちの苦労を知ろうと現場で体験労働をやった。しかし、そこで働いている鉱夫が彼らにこのように言った。「わしらは家に帰っても貧しい生活が待っているだけだがあなたがたは家に帰ればお坊ちゃまとして女中が世話を焼いてくれる。わしらのような生活ができなければわしらの苦労は分からない。だから家に帰りなさい。」と言われて彼らは帰っていった。そんな話だった。善意にあふれている若者でも真にその人たちを理解しようとするなら彼らと同じ状況の中にいなければわからないことである。単なる善意とかボランティアは相手を傷つける。釜ヶ崎とはそういうことが顕著に表れるところなのであろう。著者も最初は戸惑い、そこに身を置けるまでに何年かかかったようである。高尚な世界とは縁遠いけどこのような世界は隣合わせのような感じ受けるからどこか身近に思える。

著者は聖書を旧約は新共同訳、新約は私訳を引用している。引用されている聖書の箇所はそれほど多くはないが新改訳は勿論新共同訳とだいぶ趣が違う。例えば、マタイ福音書5章3節が引用されているので、私訳、塚本虎二訳(岩波文庫)、新共同訳、新改訳(3版)の順に並べてみる。

「心底貧しくされている人たちは、神からの力があ
 る。天の国はその人たちのものである。」

「ああ幸いだ、神に寄りすがる〝貧しい人たち、〟
 天の国はその人たちのものとなるのだから。

「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人
 たちのものである。」

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たち
 のものだから。」

塚本訳とニュアンスが似ているかなと、著者は一般受けさせるために聖書本来の意図を伝えてないと今の聖書の訳を批判していた。何となくわかるような気がする。来年秋に新改訳の新版が出るそうだ。全面改定と謳っているがどこまで期待に応えてくれるのか期待半分、後の半分はがっかりしないようにと…。