2016年11月2日水曜日

座禅

下諏訪にある禅宗のお寺で座禅をやってきた。座禅は富士見町のお寺で三回、ここで二回目、一年に一回くらいだから細かいところは忘れている。それにあまり覚えようとしないことと老いの相乗効果で覚えない。

座禅をやって教えられることは普段がいかに姿勢が悪いかである。最初は半開きの目でシャッキと坐っているがすぐ腰が引いて猫背っぽくなるのである。10数分の間に何度か姿勢を直した。そういう意味で一年に一回くらいやるのも悪くはない。禅をこよなく愛する人にはチョット失礼かもしれないが。ここのお寺は手軽に座禅をと入門的なところなのかもしれない。以前やった富士見町のお寺はもっと本格的で30分近く座っていた。私にとっては苦行である。

禅の始まりはお釈迦様が6年間苦行しても悟りを開けずこれでは駄目だとやめて座禅を組むようになって悟りを開いたらしい。話を聞いていて聖書が語る人間観が違う。お坊さんが言っていたが仏教は哲学であると、よく分からないという意味では然りかなと思った。

聞いていて仏教の「無」と「わたしはある」と言われたイエス様と大きな違いがあるなぁと思った。人にはどうすることも出来ない「生老病死」に代表される四苦八苦、ここからの解決は聞き洩らしたが聖書はそのことよりも存在しているそのことが大切であると語っている。仏教は「四苦八苦」に代表されるように対症療法的なのかもしれない。