2016年11月4日金曜日

ある思い

今はどうかわからないが昔はお母さんが繕い物をしている脇で幼い子供が夢中になっておもちゃで遊んでいるという光景をよく見かけた。子供はお母さんが居なくなってもそこにいると思って夢中で遊んでいる。フッと振り返るといなくなっているのに気がついて不安になって泣き出すという光景はTVなどでも見かけたような気がする。そんなことを経験した子供は遊びに夢中になっても時々「お母さん」と顔を向けないで声だけ発する。そしてお母さんの「な~に」の声でいることを確認して安心するという構図もTVで見たことがある。

私は熱心からほど遠い信者であるから聖書に登場するダメ人間にリンクしてしまう。サムソンが自分から力が抜けているのに気がつかないでまたひと働きしようと出かけて捕らえられている姿は自分とダブる。サムソンのような力は元々ないのだが…。初代の王サウルも然りである。霊が消えているのに頑張る姿はまさに悪魔に捕らえられた姿そのものであろう。

聖書を読むと鳥瞰図のようによく見えても自分であることがナタンに指摘されたダビデのように気がつかないのである。義憤は気をつけないと罪を犯してしまう。それを防ぐには神に語りかけるようにして祈らないとと思っている。