2016年11月1日火曜日

貧しい人

50代の前半に田舎で同級会があった。20代前半に出たきりだから女性陣はほとんどわからなく、男性陣もわからない人が多くいた。その時招かれていた先生が(3年生の時の担任でもあって、色々お世話にもなったがその頃はそんな心のゆとりはなかった)挨拶で「昔は貧しかった。云々」言っていたのを聞いて「俺は貧しさは今も現在進行形だぜ」と心の中でつぶやいたことがあった。これも大分前の話だが以前いた集会で交わり会があり、その時にもある兄弟が同じようなことを言われた。私の番になって「貧しさは今も現在進行形であり、それに加えて心も貧しい。しかし、イエス様のどちらも幸いなりと言っているから感謝している」と言ったことがあった。どこか白けた雰囲気が出たことをよく覚えている。正直、幸いなりは現実なのだが強がり的な面もあったことも事実であった。

しかし、最近思うに〇の貧しさは現在進行形ではあるが心の貧しさは違うのではと思うようになった。イザヤ書42章、49章、50章、52章の後半から53章にしもべの姿が語られている。これこそが心の貧しい姿ではないだろうか。特に53章は十字架に向かって行かれたイエス様をそのまま髣髴とされる。あの姿こそが「心の貧しい者」の姿である。私にはない。実は自分で心が貧しいと思っていたし事実であったが糖衣錠のように心の貧しさの上に傲慢と不遜が覆っていたことに気づかされている。これが砕かれなければ真の心の貧しい者とはならないだろう。この殻を破りたい。