2016年12月17日土曜日

イザヤを読み終えて

ようやくイザヤ書を読み終えて、今エレミヤ書を読み始めている。今までは前半はそれほど好きではなかったが今回はそのような感じも受けずに後半と同じように読むことが出来た。格調の高さはイザヤの育ちの良さの所以だろうか。エレミヤ書を読み始めるとその差が歴然としている。エレミヤ書は戦後間もない日本が現実に生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされて、生きることの厳しさを目の前にして右往左往している姿とダブる。イザヤ書は立ち返れと叫ぶイザヤに民は安逸をむさぼっている。いつか滅びるであろう民を目の前にしてイザヤの苦悶もうかがえ知れる。今の日本ともダブる思えがする。

主の僕としてイエス様を共同訳では「42:1-17に主の僕の召命、49:1-9に主の僕の使命、50:4-11に主の僕の忍耐、52:13-53:12に主の僕の苦難と死」と題がついている。最後が最も好きで、聖書の箇所をどんどん忘れるていくのにここだけは覚えられる。聖書はこれだけあればと思うこともある。しかし、エレミヤ書を読み始めるとエレミヤの苦悩が伺い知れてどこか共観するものがある。