2017年1月12日木曜日

緋文字


若い時に読んだホーソンの緋文字を図書館から借りて読んでいる。2013年に光文社から小川高義訳で「ホーソーン」となっている。これが一番新しい訳のようだ。3-40年前に読んでいるから細かいところはほとんど忘れてしまって読みながら思い出している。ただ最初の導入部分は以前のには載っていなかったように思うが…。

へスター・プリンという一人の女性が女の子を生む、しかしその子の父親は夫ではない。身持ちの悪い女性かと思えばそうではなさそうである。質素ではあるが善良な一市民として惜しみなく施しをし助けを必要としている人には助けの手を差し伸べているようでもある。姦淫を除けば?非の打ち所のない女性なのである。しかし時代は清教徒たちが開拓したニューイングランドでの出来事である。彼女の胸には常に「A」(姦淫)の緋文字が付けられている。人々の非難めいた注目を受けながら逞しく生きていく母娘の姿が描かれている。

初老の夫は妻を顧みることなく放浪しているようで、インディアンの土着の医療を覚えたのか薬草を探しながら医者まがいのことをやっている。錬金なる言葉を発しているから金鉱を探す山師のような仕事をしていたのかもしれない。しかし妻が子供を産むと執拗に犯人探しをする。その鋭い感は相手を追い詰めていくがその執拗さは尋常ではない。若い牧師が女に向かって「…お前が飲もうとする苦い薬の杯を、おそらくは自身の手でつかむ決心がつかないであろう者にも、差し出してやるがよい」と名前を告白するように迫るが彼女は「…もし叶うことなら、その方の分まで私が苦しみ抜きとうございます」と告白する。(実は女の子の父親はこの若い牧師なのであるがどのような経緯でこうなったかはわからない)悪役のような夫、真実な二人と現実に起きたことに対する赦しのない行為、ピューリタンは素晴らしいがそこには許しがない。聖書にも同じようなことが登場するが結果が悲惨でも赦しがある。しかし人は許すことは出来ない。あるいは赦しは人の側にはなくて神の側にしかないのだろう。教会の限界もここにあるような気がする。勿論それを求めるつもりもないしできない。本を読み終えて愛するとか許すとかは人の世界では狭い世界でしか通用しないのだろうなと思わされた。しかし人はその世界から出ることも出来る。色々な方法で、それが信仰的か否かはわからないが。