ちょうど二十年前、聖書も読み、キリスト教関係の本も読んでいて知識も少し増えたかな等と思っていた。しかし、ある時「俺、イエス様のこと何にも知らない」という思いが私の心を捉え、今もその思いから一歩も出ていないのである。そんな時に読んだ一冊の本、「神の素晴らしい計画」(原題は「損失を通して益を得る」)、この本を読むまで神の祝福とは「得る」ことだと理解していた。しかし、神は失うことを通して祝福されることを教えられ、こういう祝福があるのかと驚くとともに何か共感するものがあって喜んでいた。それから間もなく失業したのであるが、これは神からものと受け取ることが出来たが、再就職も簡単に出来ず、幾つかのものも失い、その余韻が今も続いているのである。教えられるとか祝福されるということは、人間的には痛みを伴うものでもある。そこに載っていた二つの詩、主を知ること、祝福されるということは、こういう経験が伴うのかなと最近思わされている。
「……するために」
しかし私は、謙遜を学ぶために弱い者とされました。
私はさらに偉大なことをするために、健康を求めました。
しかし私は、さらに良いことをするために病弱を与えられました。
私は幸福になるために、富を求めました。
しかし私は、賢くなるために貧しさを与えられました。
わたしは人々の賞賛を得るために、権力を求めました。
しかし私は、神の必要を覚えるために弱さを与えられました。
私は人生を楽しむために、すべてのものを求めました。
しかし私は、すべてのものを楽しむために、いのちを与えられました。
私は、自分が求めたものを何も得ませんでした。
しかし、私は望んでいたもの、すべてを得たのです。
わたしの祈りは、知らず知らずのうちに答えられました。
私はすべての人のうちで、最も豊かに祝福されたのです。
作者不明
「宝」
一つまた一つと、神は私から取り去られた。
私がこの上もなく価値ありと思っているすべてのものを、
私の手がからになってしまうまで。
ピカピカ光るくだらないものは
皆なくなってしまった。
私はそれを悲しみながら歩いていた。
貧乏というぼろをまとって。
そして、ついに私を招く神の御声を聞いた。
「あなたのからの手を、私にあげなさい」と。
私は両手を天に向かって差し伸ばした。
神はご自身の素晴らしい富で私を満たしてくださった。
両手で持ちきれなくなるまで。
神はすでに満たされている手に、
ご自分の富を注ぐことはおできにならないことを。
マーサ・スネル・ニコルソン
「神のすばらしいご計画」より