2014年7月31日木曜日

不在者投票

来月の10日に長野県知事選の投票日である。家内が「骨粗しょう症」の検査のために保健センターに行くから隣の文化センターで不在者投票をやっているので一緒に投票をして来た。選挙の投票日は日曜がほとんどなので東京にいるときから不在者投票をしている。見ていると途切れることなく人が来ている。下諏訪の町は選挙に関心が高いのかなと思った。入口の所にポケットティッシュとトイレットペーパーが置いてあり、トイレットペーパーには新聞などのリサイクルでできたものであることが書かれてあって自由にお持ちくださいとあったから貰ってきたがあまり持っていく人はいなかった。くれるものはなんでも派なので万事こんな調子、貧乏性が抜けない。貧乏から抜けていないから当然か。

国政選挙、知事選、県議選、自治体の長および議員の選挙と関心の度合いが下がる。何故だろうと思うこともないが多分候補者のことを知らない所為もあり、それと一票の重みの違いもあるのだろうななどと思ったりもしている。阿部さんが当選するのだろうが官僚出身の所為か物事を無難にこなしているが芯になるものが見当たらない。どこか玉虫色的なのである。力のバランスの上に立っているようで強い反対者が出るような施策は行わない。浅川ダムがいい例で、詳しい事情は分からないが本当に必要なのか疑問である。だから物足りない。田中元知事のように何をするかわからないような知事より無難にこなしてくれる知事の方がいいかもしれないがどこか発展性がないような気がするがどうだろう。知事よりも自治体の長の方が何かと求められているのに答えていないのかなと思ったりもしている。よく知らないので何とも言えないが噂はあんまり芳しくない。

2014年7月30日水曜日

友遠方より来たる

もう昨日になるか、以前いた集会の兄姉5名が来て下さった。いつも来て下さるM伝道者が私たち夫婦のことをアナウンスの時に何か言われたようで少し心配して来て下さった。リタイヤした兄姉であり、まだ働いている方もいるがフルタイムではない。このような人たちだから心配と気分転換に少しドライブをとの思いもあったのかなとも思っている。それにしては200キロは遠いか?でもいい交わりができてお互いに感謝することができて良かった。前に来て下さる約束が運転するW兄が 具合悪くなり来れなくなって当分だめかなと思っていたら早々に来て下さって感謝である。。朝東京を出発して昼過ぎに着いた。少し交わって昼食に、信州はソバと決まっているから近くのそば屋で昼食を取る。住宅街の中にあるが割と評判のいい店である。T姉が食事代を出すからと言われていたので素直に感謝してごちそうになる。お店で話し込んでいたら店員に昼の時間が終わるのでと言われて店を出る。

続きは我が家で同じテーブルを囲んで姉妹たちは姉妹たちで兄弟たちは兄弟たちで話し込む、姉妹たちは弾んていたようだが兄弟たちは主にw兄が話をして、私やk兄はそれに合わせるように話をする。信仰のこと皆の家族のことと多岐に亘る。多岐に亘るということは最大公約数的になるからあまり突っ込んだ話は出来ない。それはそれでよかったと思っている。そういう面ではその前に来て下さったTファミリーのT兄と三人で交わった時の方が人が少ない分だけ絞られたのかなと思ている。彼はどう思っているかわからないが年齢は親子ほど違うけれどどこか共観するものを持っている。いや困ると言われそうだが私としては嬉しいことである。短い時間だったが楽しいひと時を過ごすことができた。交わっていて流石都会人、頭の回転が速い。特にw兄は、元々、そして今も教えたりしているから頭も舌も回転が速い、お蔭で私の頭と舌の回転の悪さが際立った。大平元首相ではないが「アー、ウー」と言っているうちに彼は次のことばを発してくる。メッセージを含め、頭と舌の訓練をしないとと思ったが松鶴家千とせではないが「わかるかなぁ~わかんねぇだろうなぁ~」調でいくと「できるかなぁ~出来ないだろうなぁ~」が結論になりそう。

今月は3日にMファミリー、13日にTファミリー、21日はMファミリーを松本、茅野で交わり、そして今回。嬉しい限りである。主にある幸いを覚える。社会的に見たら接点のない人たちだそれが親しく交われるということは主にある冥利に尽きる。今回、そして今月はそれを実感する。主に感謝。

2014年7月26日土曜日

通読を終える

聖書をゆっくり読んでも頭に入らないのならいっそ字面を追うだけでもいいからと始めた聖書通読を先日読み終えた。七か月かけてようやく終えた。失業して設備の仕事に就いて杉並区のある施設に勤務していた時、管理室には人がほとんど来ないのでそこではひたすら聖書を読んでいた。そこでは定期的にやるのは朝、昼、晩と三回記録を取るだけで、二交代制だから実質一回か二回とるだけ良かった。事務所から何か言ってこなければ何もしなくてもよかったし、それでもどこかの不具合があったりすると直したりはしたがそれはそれほどでもなかった。だから時間があったら聖書を読んでいたので3か月で読み終えた。仕事に来ているのか聖書を読みに来ているのかとそんなことがあった。今回は倍以上かかったがもう時間があっても根気もなくなり、老眼も進み目も疲れるようになった。それにパソコンとにらめっこもしているし今ゆっくりとマタイの福音書の系図を読み始めている。聖書を最初に手にして、本は最初から読むものと創世記から読みはじめ、新約の最初がカタカナの羅列で嫌気がさしてやめようかなと思ったが何かに促されるようにやめないで読んでいったことを懐かしく思う。何回か読んでいるとカタカナのことばはいくつか知るものとなると最初とは違って味わう思いが出てくるから感謝である。

何時だったか上沼先生のブログに、名前を忘れたがある人のことばとしてこんなことが書いてあった(間違いないと思うが)。「箴言」は若者に、「伝道者の書」は壮年に、雅歌は老人にと書いてあった。二つは理解できるが雅歌と老人はどうしても結びつかなかった。今少しわかるような気がする。あらゆるものが衰え、雅歌の歌など対極にあるように見えるがどっこいピッタリなのではと最近思っている。諸々のしがらみも薄くなり、希望と言えば手の届くところまできた天国である。
イエス様に恋をして、「あの方のすべてがいとしい」と告白できる年代に来ているのである。若者や壮年も告白するだろう。しかし、そこには人間的な打算が入って来る。老人は肉もしぼんで(だから皺だらけに)純粋に主を恋い慕えるのである。そしてこんな脱線もできるのである。

2014年7月21日月曜日

聞くということ

義姉がケアハウスに入っているので月一ちょっとの割で訪ねている。目の検診のために医者に連れて行くためである。ここはお元気なのだが連れ合いを亡くされたりしてひとりでは生活が難しい方が入所している。食事はもちろん、ヘルパーさんを頼めば洗濯や掃除もやってくれる。義姉はこれに加えてお風呂も入れてもらっている。一人だとちょっと危ない。そんな方は他にもいるみたいだ。

何時だったか2階のエレベーター前の椅子に座っていたら一人のおばあさんが隣に座って話しかけてきた(逆だったかな?)。大体すれ違えば挨拶をするくらいで、なかには何も言わない人もいるからこんなことは珍しい。近くに住んでいたが身内が誰もいなくなったのでここでお世話になっていると自分からしゃべりだした。義姉の身内の者だということは分かっているらしく「○○(義姉)さんはいいね。良く訪ねてきてくれて」と言われたが天涯孤独?の身としては誰であれ、どのようなことであれ、訪ねて来てくれる人がいるということは羨ましいことなのだろう。私のことは何ひとつ聞かないで自分のことをしゃべって止むことはない。

自分はどこそこから嫁に来てと多分近在らしい。ケアの周りは畑で上は山になっている。農家が散在しているという感じである。おばあさんの若い頃はみな農家ばかりで田舎の今と同じような雰囲気ではなかったろうかと思うと、そんなことを思いながら聞いていると田舎でおばあさんの話を聞いているような錯覚にとらわれて思わずついふんふんと頷きながら聞いてしまった。もう何を言われたかはすっかり忘れてしまったが最初から若いときのことを言われていたように思う。昔はそうだったんだと頷きながら聞いていた。入所者が50人前後おられるようだが親しく話す人は少ないのかなと思った。あるいはほとんどいないのかもしれない。私のような者に親しそうに話している姿を見てそう思ったが実際どうなのだろう。家内が戻ってきたのでそれで失礼したが「おばあさんのつまらない話を聞いてくれてありがとう」と言われて、ただふんふんと頷きながら聞いていただけなのに彼女にとってはとてもうれしかったのだろう。

知識があれば教えたがるが知識があってもまず相手の話に耳を傾ける必要があろう。相手が過ちを犯したときであってもまず耳を傾ける。結論ありきは自己中の精神、気をつけなければならない。イエス様がサマリアの女に耳を傾けている姿を思い、パリサイ人や律法学者の犯した過ちは相手の話に耳を傾けなかったことであろう。
rom:10:17


「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」



2014年7月18日金曜日

「学問のすすめ」考

前にも書いたが今一冊の本をパソコンに写している。絶版になったわけではなく、ブラインドタッチと聖書の勉強になればとの思いでやっているが「二兎を追う者は一兎をも得ず」でうまくいかない。これで三冊目だから分かっていることだからやめないでやっている。もうやらないと思うがまた暇になったらやりだすかもしれない。まだ半分終えたくらいだからまず終えるが…。

福沢諭吉の現代語訳「学問のすすめ」を読みかけているがその中の「学問の要は活用にあり」にこういうことが書いてあった。
「…学問の生命は活用にある。活用できぬ学問は無学に等しい。昔、ある朱子学の学生が、多年江戸に留学して、朱子学について諸大家の説を写し取り、日夜勉強して、数年の間にノート数百冊を作り上げた。いよいよ修業も出来上がったから故郷に帰ろうというので、自分は東海道を西に向かい。ノートはつづらに納めて、貨物船に託して発送した。ところが、不幸にも船は遠州灘で遭難してしまった。この災難のため、その学生は、自分は無事に帰国したものの、学問はすっかり海に流れてしまって、身についたものは一つもなく、いわゆるもとの木阿弥で、その無学さは遊学以前と少しも変わらなかったという話がある。…」

自分も似ていることをやっているなとの思いと自分のやっていることは昔から誰かがやっていたのだなぁと実感した。古今東西愚かしいことをやっている者は尽きないのであろう。その中の一人にサルもいるということだ。

matt:10:42
わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」 
という聖書のことばがある。

「水一杯を」と思うがそう思っていると案外そばにいてもわからないことがある。わかっていても水はあるからパンを少しと乞われれば落語の二十四孝ではないが「聖書にそんなことは書いてない」と憤慨するだけかもしれない。あるいは「水もあるパンもある。しかし、パンをあげるのは勿体ない」と断る手の方が多いかもしれない。相手が求めていることを知ろうとしなければ押し付けになる。こんなことを書いてないで家内の言っていることをすぐやらないとこれぞ愛。
 

ラジオ体操

このところ晴れているなと思ったら雨が降ってきたりで天候不順だったので歩くのも自転車に乗ることもできないので久しぶりにラジオ体操を始めている。最初は腕を動かすと腕の付け根の関節がギコギコいうような感じで痛かった。いかに運動不足かそれに加えてロウカが進んでいるのがよくわかる。中性脂肪が高いので薬を飲んでいるがお医者さんは「運動不足」の一言で言っても無駄と思っているのか「運動するように」などと言わない。歩くのはいいことは分かっているが面倒なのでつい自転車に乗ってしまう。それで運動したことにしている。

ラジオ体操は腕を結構使うのに気づかされる。それに体全体をほぐすようにしてくれる。よく考えたものだと変なところで感心してしまった。もう一週間くらいになるがなんとなく体がほぐれた感じがする。昨日は茅野の義姉の家の掃除に行ってきたが壁を拭いたりして腕を使ったがそれほど負担がかからなかったのは体操のお蔭かなと思った。いつまで続くかわからないが当分は体のなまり予防に続けたいと思っている。

2014年7月10日木曜日

赦されているということ

matt 18:21-23
そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。
このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。

福音書を見るとイエス様と弟子たちの対比をいくつか見ることができる。というより神の本質と人の本質の違い、あるいは肉のもたらす結果は神と異質なものであることを教えられる。ここでのペテロの質問は「赦しはどこまですか」であり、イエス様は「父よ彼らをお赦しください」とご自分を十字架につけた人たちの「執り成し」をされている。これは完全な赦しである。「神の公平」さとは避けられない隔たりがある。罪はあらゆるものを差別し、それを当然のように受けとめている。確かに18章冒頭の「誰が一番偉いのでしょうか」も然りである。彼らはそこから一歩も出ることはなかった。

イエス様はペテロの質問に答えて尚且つ補足するように一つのたとえを話された。1万タラントの借金を赦された者が100デナリ貸した者を赦さない出来事である。1タラントは6000デナリ、1デナリは一日分の労賃、100デナリは3か月ちょっとの労賃、返せない額ではない。しかし1万タラントを考えるとゼロの羅列で天文学的数字になる。「どうかご猶予ください」と言っているが返せる額ではない。100デナリ赦せないということは1万タラント赦されたことが理解できていないということではないだろうか。100デナリと1万タラントは比較にならないと同じように物理的な赦しと罪の赦しはイコールではない。しかしこのたとえと同じようにみることができるのではないだろうか。

高橋先生が「伝道とは」のところで「…人類に働きかける神の御業は、御子なるキリストの十字架と復活において、その絶頂に達しました。私共の全存在がこれにどう応答するかという信仰的表白こそ、福音を世に伝える私共の責任であります。信仰とは、迫り来る神の恵みに圧倒され、罪と死からの解放を与えられた者が、全存在を挙げて神の真実に応えようとする信頼と服従にほかなりません。それは、感謝と賛美として御前に捧げられるばかりでなく、キリストの死に合わせられた者としての古き自己の死を産み出すことにもなりましょう。つまり伝道とは、キリストの生命の伝達であるばかりでなく、伝道者自身の生命も併せて注ぎ出されるのであります。…この伝道活動を通して生命の喜びが生み出されるばかりでなく、悪の支配に抗して戦い抜く決意と力が溢れ出ることも、尊い神の恵みの発現であります。」と書いておられる。

100デナリ赦せない者の姿は自分とダブるが罪の赦しを受けるだけであればこうなるのだろう。しかし、それにいかに応えようかと思えば罪の赦しの重みの大きさを確認させられ、他者を赦すという赦しは些細なことであることがわかる。「赦す」ということが福音の理解度のバロメーターになっている。そんな気がする。

2014年7月3日木曜日

静かな暴力

世の中のきな臭い動きを見ているとよく思い出すのがこの聖書のことばである。

わたしはあなたを引き回し、あなたのあごにをかけ、あなたと、あなたの全軍勢を出陣させる。それはみな武装した馬や騎兵、大盾と盾を持ち、みな剣を取る大集団だ。ezek:38: 4

エゼキエルは37章に「枯骨の復活」の後にこのようなことを書いている。

新聞は取っていないので読むのは週に一二回くらいしかない。それもサーッとである。ニュースはTVのみ、ネットがあるかしかし断片的である。そんな中で政治の動きを見ていると危惧の一語に尽きる。安倍さんは勿論のことだがそれに反対する声が聞こえてこないのも怖い。鳴りを潜めているのかマスコミが意図して流さないのか定かでないが。政治のニュースと言えばどこかの県議が意味不明の釈明会見を繰り返し流している。全く戯画的である。

安倍さんの話を聞いていると言葉の軽さを感じる。というより言葉の遊びをやっているようで何ひとつこちらに響いてこない。あり得ないことをさもあったらと想定して図まで書いて説明している姿を見て、厚顔なのか無知なのかと見識を疑ってしまった。はたまた国民を馬鹿にしているのか。小泉さんもそうだったがどこか短絡的、勿論すべてとは言わないが。しかしこれが日本の為政者の姿かと思うと暗然とする。ブッシュのようにあからさまもなんだが。

先の戦争の轍を踏もうとしているように感じてしようがない。そしてその道を歩み始めようとしている。国民のためと、確かに国民は苦しみを強いられる。国民のためではなくて誰かのために動いている姿が見え隠れする。この間TVでトヨタの豊田章男社長がゲスト出演していた。その中で国内生産300万台確保を述べていた。それは雇用と技術の維持発展に欠かせないと、グローバル企業がどんどん海外にシフトをしているのにと思いつつ、だからこそ今日のトヨタの発展があるのかと変なところで感心した。国は国民のためよりもグローバル企業のために奉仕していく、企業もそれを求めている。そのようなところに個人はない。自分の主権と力を行使しているようであっても実は顎に鉤をひっかけられて振り回されているに過ぎないそんな姿を思い浮かべる。安氏の「たとえそうでなくても」の本の中に日本の軍隊が骸骨の行進に見えたと書いてあったが人々からスポットライトを浴びているようなものでも中身は実にお粗末過ぎるということもある。社会の底辺の出来事なら大したことではないが国のトップが事を起こしたらどうなるかはすでに立証済みである。

国民のためにと言いながら国民に大いなる負担を苦しみを担わせようとするならそれは暴力でなくて何であろう。国民の一人というより社会の底辺で生きる者が感じるものはあながち間違っていないと思っているが。

2014年7月1日火曜日

もうひとりの助け主

 
  聖霊 御霊 助け主
マタイ 5 6 0
マルコ 4 2 0
ルカ 11 4 0
ヨハネ 3 15 6

福音書の聖霊、御霊、助け主の内訳をみるとこうなる。ヨハネの助け主は論外としても各福音書の聖霊と御霊の回数を見るとマタイは似たような比率でマルコ2:1、ルカは3:1でヨハネは1:5である。ルカ、ヨハネは比率がだいぶ違うし対比が逆である。面白いなと思った。それとヨハネは「御霊」が他の福音書よりダントツ多い。これも面白い。それに「助け主」が加わる。さらにである。

マタイ、マルコ、ルカの福音書を共観福音書と言われているが福音書の対照表を作ったのをみるとマタイとマルコはほとんど同じである。しかし、ルカ独特ののものも少なくない。また四福音書に書かれている事柄もある。バプテスマのヨハネの活動とイエス様の宣教活動開始、そしてエルサレム入城から十字架、復活とともに書かれてる。重要な出来事である故であろう。

聖書の注解書を読んでも読み切れないほど能力が無くなった。というより元々なかったのかもしれないがどちらでも現実はそういうことだ。
福音書をざっと読んでいて感じることは三福音書はイエス様の生涯を描かれているのは分かるがヨハネは同じようにイエス様の生涯を書いていながらキリスト後のキリスト者に向けて書かれているようなそんな感じを受ける。その最たるものかどうかは分からないが「助け主」が来られるという約束がそうである。極論だがもし救いだけが目的なら「助け主」はいらない。より主を神を知るにはこの方が必要である。聖歌632番(総合版)に、

  なおもみめぐみをなをもみすくいを
  なおもわがためにみうせし主をしらん
   くりかえし
  なおふかく主をなおふかく主を
  なおもわがためにみうせし主をしらん

聖書を読んでもこのような告白はできない。まさに「助け主」の働きがなければ「イエスは主である」とさえ告白できない。「助け主」のお蔭で「イエスは主である」と告白できることを感謝して、聖歌の歌詞同様に深く主を知りたいものである。