2013年12月5日木曜日

市民から町民に

今月中ごろに隣町に引越しをする。引越しをする前に転出手続きをしてほしいとのことで昨日手続きをしてきた。市民から町民になる。だから何と言われそうだが家内は・・郡・・町となるのが何となく嫌だなぁと言っている。町に失礼だと思うが生まれ育った市内から(今の所から2-3キロ離れているだけ)また離れるという寂しさもあるようだ。それでも正直・・郡には少し抵抗がある。ここには村もあるがいっそ村だったら何となくのどかな感じを受ける。いつだったかシニアの集まりで地元自治体の偉い人たちも来られていた時、汽笛一声の唱歌のメロディに合わせて郡歌なるものを歌ったのに驚きを超えて唖然としてしまった。県歌である「信濃の国」をスラスラと歌う県民性、そして郡歌なるものを歌うということはそれだけ住んでいる所に愛着と誇りを持っているのだろうなと思う。そんな気質をうかがい知ると町は更に強いのかなと思うと少しウツになる。しかし歩いて2-3分で湖があり、そこは漕艇場にもなっていて若い人たちが練習しているのをよく見かける。それに湖に沿って並木があり遊歩道になっている。ジョキングコースにもなっている。この町は今整備中だが隣の両市は湖周はそのようになっている。そういう面で今のところよりはいいのかなと思うがどうだろう。

山の近くから湖の近くへといっても今の所は山にも湖にも2-3キロ、今度の所は山には2-3キロで、少し東に行くと湖周の道路と20号線と線路が並行して走り、その上は旧甲州街道?もうそこは山である。湖周は狭いが茅野市から原村、富士見町は海抜千メートル近くなるが八ヶ岳の裾野のように広がっていて、同じ諏訪地区でも趣が違う。ここから見る富士山も大きく見え、湖周とは色々な面で対照的である。

2013年11月29日金曜日

原発ホワイトアウト

現役の官僚が書かれた原発の暴露本とかで図書館に予約していた。昨日入荷したとのメールがあり借りてきたが新刊なので1ヶ月あまりかかった。まだ5名ばかり予約が入っている。

早速読み始めたがついつい聖書も読まずデボーションもやらず読んでしまった。フィクションのようなノンフィクションのようなはたまた暴露本のような三つが混在している本といったほうがいいかもしれない。それに登場人物の中に明らかに誰であるかがわかるような名前で登場する。

プロローグで原発と何の関係もない吹雪の山の中を進んでいく二人が登場する。これが終章につながり暗澹たる結末を明らかにしてくれる。ここは福島の惨憺たる姿とダブル、否もっと深刻な日本沈没に繋がりそうな事態が待っている。新崎(新潟)県は雪国であるから十分あり得ることである。今年田舎に行った帰り、新崎(柏崎)原発に寄った。広大な敷地だが事何かが起きたときは福島の比ではないだろうなと思う。本の中にもチョッと触れていたが元?佐藤栄佐久福島県知事の逮捕も反原発ということでは真実味が増してくる。お気に入りに入れている小海の牧師のブログを見たら丁度、元民主党の国会議員石井紘基氏の刺殺事件のことが書かれていた。まさにこの本の舞台と同じ状況の中にあった。日本は決して平和な国ではない。

最後のところで政・官・業のトライアングルの利害が一致している間は何が起きても変わらないことを暗示しているようだ。かつて日本はキリシタン弾圧を行った。しかしスペインではユダヤ人やユダヤ人改宗者をひどいやり方で殺している。人は利害によって簡単に右にも左に動く、これが人間の性であろう。どこか真実味を感じるから読後感は良くない。強い者が正義なのだろうなこの世は。

2013年11月21日木曜日

日々の歩みの中で

リタイアした今は、日々の生活はあまり変化のない日々である。そんな中でも小さなことではあるが色々なことが起きている。それは特別なものではなく生活の場で起きる諸々のものなのであろう。何もしないのに物事がいいように展開していったり、色々努力していたことが無駄になったり、心配していたことが徒労に終わったりと様々である。

色々キャパの小ささを思い知らされている時「主よ、今ここに五つのパンと二匹の魚しかありません」と告白することがある。それが能力であったり、お金であったりする。だからこうしてくださいとは祈らない。ただ現実だけを告白する。これが五千人とは行かないけれど必要を満たすことがある時とそのままの時と色々である。どちらにしてもそれがわかったときは納得できるから幸いである。こんなことを書くと主に叱られそうだが何かギリギリのところで守られているそんな気がする。だからイスラエルの民の荒野での呟きがよくわかるのである。

この間東京に行った時、食べたしゃぶしゃぶはおいしかった。超久しぶりだったがまた食べたいとは思はなかった。小さい時に新鮮な魚を食べていたのと年の所為だったのだろうか。魚は新鮮でなくても食べる。最近は気をつけているが物によっては頭から骨から丸かじりである。諸事情によりヘルシーな野菜中心、それが逆にいいのかもしれない。極偶に美味しいものに預かると「ハレルヤ」となる。このくらいが一番。


2013年11月18日月曜日

この道の者

この間、使9:2から「この道の者」から話をした。イエス様を主と仰ぐ群れは、まだユダヤ教の異端?の一分派と見做されていた頃でキリスト者と呼ばれるようになるのはその後のことである(11:26)。5:13には「ほかの人々は、一人もこの交わりに加わろうとしなかったが、(14節では「主を信じる者は男も女もますます増えて・・・」とあるが)その人々は彼らを尊敬していた」と書かれている。すべてとは言わないが今日のキリスト者に対しても見られることではないだろうか。それはある面で高いものが求められているということでもあるかもしれない。この道は普通の道ではないのであろう。

ルカ10:30-27に「よきサマリヤ人のたとえ話」がある。ここから話をしたこともあり、また何度か聞くことがある有名な箇所である。この間話をしたときは祭司やれビ人は自分とダブるようなことを言いい、サマリヤ人にはなれないと言ったように覚えている。「この道の者」を思い巡らしているとき、「ある人」すなわち半殺しにあった人の立場にたって考えていないことに気づかされた。サルが誰かのために何かをしようとするとき、多くは自分の立場で助けようとする。まさに落語の「二十四孝」の八五郎?その者である。

「この道の者」であれば、「ある人」、すなわち半殺しにあった人の立場に立つことができなければやってはいけないような気がする。それはまさに「あなたのためにやってあげてます」になる。それは善であっても偽善ではないだろうか。何かをしてあげたいと思うウズウズする腕をじっと縛って、その人と一つになって初めてできる。サルはそんな人になりたい。

2013年11月16日土曜日

便利に

話の準備などで色々調べようとすると手元に資料が少ないのでネット検索をしている。図書館で借りて「細川がラシャ」(田端泰子著)を読んでいるが学のないサルは武将の名前が読めない。ウィキペディアで苗字をを入れると歴史上に名のある人物はその後に多くの名前が列挙されるからその中に殆どある。読み方もわかり、どういう人物かもわかる。それと読めない漢字がちょこちょこと出てくる。これはワードの手書きで大体わかる。漢和辞典だと偏だ冠だつくりだとか何画がわからない時があり、それに調べるのに手間取るからこれは重宝している。漢字が二文字だと手書きで調べて「コトバンク」で読みと意味を調べる。これは更に便利である。「細川ガラシャ」を読むときはパソコンはオン状態。しかし漢詩はギブアップ。「コトバンク」は和英も英和もできるようだがお世話になる機会はない。聖書の言葉は富山国際大学の高尾准教授が「聖書用語検索」というのを作成して公開している。アクセスは1570万近くになっている。最初の頃はポツポツだったように記憶しているが今はすごい。それに新改訳だけかなと思ったら口語訳や新共同訳もある。聖書箇所と聖書の言葉の両方を検索できるから便利である。ただ「愛」などは数が多くて無理、「愛・・・」と入れないと駄目。聖書の言葉もうろ覚えだと駄目でなんか手がかりを見つけて検索している。元々記憶装置が弱く、晩年になって更にその能力が落ちている者にとってはとても助かる。足の不自由な方の車椅子のようなものである。我がキリスト集団は恐ろしい集団で老いも若きも聖書の言葉を言うと聖書をペラペラとめくってその箇所を出し、話の中で必要なみことばをこれまた聖書をペラペラとめくって提示する。そんな人がゴロゴロ?いる。頭に聖書がきっちり入っていていつでも取り出せる。サルにも入っているが暗証番号を忘れたのか出てこない。文明の利器を使わしてもらっているが肝心な信仰は自前でないとこれが問題、しかしガンバリズで頑張るのではなく、与えられているもの、大切にしないと…。

2013年11月15日金曜日

寒さの中で

大分寒くなって朝など車のフロントは真っ白になっている。朝早いと濡れている路面などはすべるような感じを受けるから薄い氷が張っているのかもしれない。それでもまだまだ序の口これから本番である。夕方暗くなってから近くまで散歩したがそれほど寒く感じなかった。少しづづ慣れてきているのかもしれない。多分気温は一ケタ台であろう。

先日に上京して帰る時は少し寒かったが前日は朝から晴天で夕方まで暖かく小春日和のようだった。その日は全国的に暖かかったようだが東京は調べたら20℃だった。あの暖かさを感じながら信州と違うなぁと思いつつどこか落ち着きがない自分に気づかされる。寒いのは嫌だと言いながら信州の寒さに慣れてきたのかフッと暖かさの中で信州の寒さを懐かしむ自分を発見するのである。こちらに来て5年信州に慣れてきた証拠か?喜ぶべきことなのかはたまた・・・思案中である。ちょっと大袈裟かな。でも確かに何かが動いているそんな感じのする今日この頃である。今度の日曜日に話すのにそれを脇においてこんなことを書いている。

2013年11月14日木曜日

教会の麗しさ

松本にある集会は7月と11月の祝日を利用して学び会を行っている。近いということもあって案内をいただき、他集会との交わりや学びに参加する機会が殆どない集会なので貴重な交わりと学びの機会なのである。7月は経堂のM伝道者、11月は佐久のN伝道者と決まっている。経堂集会にはK兄姉の二人の子供さん(姉弟)が集っていて、既に二人とも結婚されていて良き家庭を築き、集会の奉仕にと励んでいる。ご両親には言えないが(最近は言っているかな?)きつい冗談も言える間柄でもある。長谷川町子さんの「いじわるばあさん」ではないが顔と口の悪いのは先刻承知済みで納得している所為もあるのかもしれない(Mちゃん、Tくんアリガト)。

この4日にはN伝道者のお話を聞くことができた。「教会の麗しさ」というタイトルで、午前がエペソ5:1-2からキリストの「香り」について、午後は1テモテ3:15から「霊的な力」の源といっていいのか教会は「真理の柱、土台」について語られ味わい深い学びだった。
香りは砕かれなければ香りを放つことが出来ない。イザヤ53章、57:15、66:2を引用されて、イエス様の砕かれた姿をまた私たちは砕かれなければキリストの麗しさに預かれないことを教えられる。

午後は法隆寺の土台と柱について宮大工の方のお話を例に話され、これも味わい深いものがあった。教会はイエス様がなされた業によってもたらされた。思い巡らすとただアーメンと言わざるを得ない。お話を聞く前に丁度教会の歴史を見ていた。それは惨憺たるものである。神は何でと思うが選ばれたイスラエルの民も然りである。イスラエルの民も教会も目覆おうものがあるが神はまた別の見方がある。それを学びを通して少し見ることができた。

メモも取らずに聖書の箇所を開いて聖書を解きほぐすように話され、例話もたくさん用いて、小学生もいる所為かわかりやすく話されるのにも感心する。エチオピアの宦官のようなサルにとって、みことばの解き明かしを聞けることは感謝である。

食事や交わりの時、兄姉の間を歩いてお茶を注ぎ自分の席に座ることのなく奉仕しているJ宣教師。思わず「一つ質問があります。姉妹はいつ休みますか」と姉妹は苦笑い?しながら笑顔を返してくれた。実によく気がつき、交わりのときのケーキも彼女が焼いてくれる。いつもおいしく頂いている。今回初めて少し話をすることができたがあまり表立ってやることは好きではないそうだ。でも福音のためなら苦手なことでも喜んでするそんな感じを受けた。まさに「イエス様がすべて」他に魅力を感じないそんな思いを抱かせえる。集会のみならず住んでいるところでも誰もやらないような掃除を率先してやっているようだ。同じマンションに住んでるという姉妹を紹介してくれた。この時は見えなかったが一人の姉妹も彼女の行動を見て信仰を持たれたようなことを証してくれたことがあった。雲泥の差とは姉妹とサルのことにぴったりである。

釧路キりスト福音教会の山形牧師のブログをお気に入りに入れて読んでいる。ハービーさんで検索したら見つかったブログである。何時だったか帯広キリスト福音教会の40周年記念会に出席したことが書かれてあった。そこでJ宣教師が被り物をして証されたことを記していた。姉妹のことをとても好意的に書いていて、否、姉妹がそう語るにふさわしいからであろう。それに証するということは教会に大いに寄与されたからではないかと思っている。長く宣教師として働き、今も覚えられているということは姉妹の姿を見て頷ける。自慢することを知らないような方だからこんなことを書いたら怒られそうだがまぁ本人は知ることはないであろうから頬かむり。あまり知らなかったが姉妹の人となりを知って尊敬の念を抱く、しかし足元にも及ばないないぁ。同じまな板に載せること自体が傲慢である。サルでもできる反省・・・。

そういえば以前にはニュージーランドから多くの宣教師が北海道で働いていたことを思い出した。釧路も帯広も元は集会関係の集まりであったらしい。北海道は札幌の福音館もそうだし他にもありそうだ。帯広の牧師は神学校を出ていないそうだ。年に一度?集会に来てくれるTファミリー、下諏訪に姉妹の学生時代の友達がいる。お兄さんは牧師をしているがこの方も神学校を出ていない。山形牧師も書いていたが神学校を出ていなければ牧師になれないということではない。でも彼はイギリスの神学校を出ている。諸集会はキリスト教界では小さな集まりだが宣教師を通して色々と繋がりがあるのはうれしいことである。集会は問題点もあるが指向していることは正しいと信じている。色々なことを見せて貰って、我が糧としたいものである。もう先が見えている歳ではあるが。

初期のキリスト者像

「使徒の働き」を見ると初期のキリスト者像がよくわかる。
5:13に「ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。」、塚本虎二訳では「ほかの者は(なんとなく近寄りがたくて、)だれ一人敢えて彼ら(の仲間)に加わろうとしなかったが、それでも民衆は彼らを尊敬していたので──」とある。塚本訳の方がわかりやすいような気がする。同じようなことが今日でも見ることができる。そういう意味で初代の信徒も現代の信徒も変わらない評価を受けているのかな。
次に、
9: 2ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。」、ここでは「この道の者」とある。「この道』という言葉も19:9,23、22:4、24:14,22に出てくるだけである。当時はまだユダヤ教の一派で異端と見做されていたようである(24:14)。黒崎注解では「道は、往々にして異端または宗派を表す場合あり。」と書いいる。日本では「道」といえば柔道、武道、茶道、華道とあるようにその
道の専門的なものを意味する(それによって人を一定の方向に導くもの。 専門を究めて一派を立てた技芸―コトバンク)。日本における「道」はこのような意味を成している。柔道などは勝てばいいみたいなところがあってつまらなくなっているが本来ならば型があり、「道」を極めた人の柔道は美しい。他のスポーツも然り、「礼に始まって礼に終わる」と言われている。聖書から悦脱しているかもしれないが「この道」を歩むなら、今と違う歩みがあるのではないだろうかと思わされている。信仰、教会中心主義はそれを守れる人は幸いであるがそうでない人は枠の外にいるほかないのである。勿論、信仰生活が守られ、教会生活が守られる信徒は幸いであり感謝すべきことではあるが。

読んではいないがトマス・ア・ケンピスの「キリストに倣いて」という題名の本がある。まさに「道」とはこのことであろう。明治のキリスト者は「この道を」極めようと聖書研究に社会事業や教育にそして福音宣教にと邁進して今日の教会があり、社会福祉があり、学校があるように思う。「この道」とは登る道ではなく低く降りていく道である。サルは「この道」ではなく「外道」だなぁ。



1:26「彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」







2013年11月12日火曜日

社会の底辺で生きて


政治にはあまり関心がないというより難しくてといった方がいい。最近は更に「集団的自衛権」、「特定秘密保護法案」なんていうのはさっぱりである。このようなことが論議されているのを見ると誰が何を守ろうとしているのかがわからない。何か戦前の姿に回帰しようとしているような姿を垣間見る。右も左も表に出ないで何か動いているような気がしてならない。広島記念公園の碑に安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬからとあるそうだ。でも歴史は繰り返すのである。為政者の懐の深さはどこから来るのだろうかそれは「神を恐れる」ところから来るのである。あなたが自由に自分の思いで色々な事をするがいい。そして出来るだろう。しかしそれはあなたではない。神があなたのあごに鉤をかけて引き回しているに過ぎない。国民を犠牲にしなければわからない愚かさである。イエス様は十字架上ですべては終わったと言われた。勝利ではなく敗北のような姿の中にすべては終わったのである。真の勝利とはこのようなものである。ガッツポーズの勝利は似非勝利である。
ezek:38: 4
わたしはあなたを引き回し、あなたのあご鉤をかけ、あなたと、あなたの全軍勢を出陣させる。それはみな武装した馬や騎兵、大盾と盾を持ち、みな剣を取る大集団だ

四つも

47,8歳位の時だったかな時折字が霞んで見えるようになった。失明するのかなと心配しながら眼科に行ったら単なる老眼の始まり、紹介された眼鏡屋さんで眼鏡を注文した。ところが度が強くて眼鏡をかけるとくらくらするのでそのままほって置いた。50代になって少し老眼が進んで段々眼鏡が合うようになってそれから度が進む度に新しいの作ってきたがあれから何個作ったかわからない。現在は4個使っている。一番弱い遠近両用はこれで字は読めないが車を運転しているときにかけるとぼんやりしている景色がはっきりする。次に度の強い眼鏡はパソコン用に使っている。これで字を読むと少しぼんやりする。次が活字を読む時に使っている。しかしこれも弱くなって字が小さめだと難しくなった。最近は少し前に作った少し度が強いものを使うようになった。これだと良く見える。

今使っている聖書は製本が悪くて本体と表紙がはがれてしまっている。交換すると言われたが大変だろうから聖書読むには差しさわりが無いのでそのまま使っているがそれでも最近はなんとなく扱いにくい。以前3版のちぇん式聖書を買っていて、殆ど使わないのでこれを使おうかなと思っている。老眼の度が進んでいるのに字の小さい聖書を読み、力がなくなったのに重い聖書を持ち歩こうとしている。なんとチャレンジ精神に富んでいるのだろうと自分を褒めているが使わないのはもったいないというだけなのである。老眼用の虫眼鏡はバックとリュックに入れている。図書館などに行くときにはかさばらないので一番小さな聖書を持っていく、製本ミスでそれを修復したのを1000円で売っていたのを買った。そして眼鏡と虫眼鏡で活字を拾っていく、まだ読めると実感出来るのがいい。

このところ耳が遠くなって小さい声が聞こえ難くなって来た。東京では1~2年に一回の割で耳垢を取ってもらっていたがこちらに来て5年、まだ一回も取ってもらってないので耳垢が詰まったかと思い医者に見てもらったら耳垢は溜まっているがその所為ではなく単なる老人性の難聴とのこと、半年か一年に一回来てと言われ、来るなら一月と八月に、この時は耳垢の掃除ばかりだからと言われ、他の月は忙しいがこの月は暇なんだそうだ。左が右のような聴力だと補聴器をと言われ、ついに来たかなと思った。先日東京に行った時、八王子の料金所で150円ですと機械が言っているので大分安くなったなぁと思ったらその前の4が聞こえてなかった。話をしていても以前より聞き返す頻度が高くなっている。どこもかしこもローカです。


isa 40:31
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

頑張ろう



電気毛布を

ここ寒くなったのでついに電気毛布を使うことになった。家内は既に寝る前に電気毛布を入れ、寝るときに切るようにしていたが昨日からは弱にして寝るようにしている。今までは布団に入るとどこかひんやりするがじっとしていると体温で暖かくなってくる。この感覚を感じながらまだまだだ若いと自認するのである。年と共にこれがいけなくなってくるがいけなくなってもダビデのようにはなれない(1列1:1)。現代ではこれは問題だが今は電気毛布がある。しかしこれも最近のオール電化の新築の家は夜間の電力を使って暖房をしているから電気毛布はもう過去の遺物になりつつある。生活が快適になるにつれ、物の有り難さは失われていくような気がする。寒い時に暖かい布団に入ってあのぬくもりは寒いところに住んでいる者でなければ実感することの出来ない喜びである。しかし電気毛布を使わないですむなら・・・。

2013年11月3日日曜日

今日は

いつもは数人の集会が桐生のM兄姉と息子さん、それに姉妹のお母さんとお姉さんが来られてテーブルを二つ追加してしまった。お母さんとお姉さんはまだ信仰を持っていないそうだが小さな集会では人の数が多いことはそれだけでもうれしいものである。

M姉は伊那の出身で20年前に家内の実家で家庭集会をやっていたとき来られたとか言われ、長男の方は一歳だったそうで集会のI兄姉も覚えていた。そのような経緯があった所為か最初から和やかな雰囲気だった。それと同じ主にある者同士であることもそれを助長させてくれたのかなと思う。

兄弟が明治からの著名な方でクリスチャンである人々をピックアップして話をしてくれた。長谷川町子さんのサザエさんが新しい家族像を描いていると言われて気にしないで観ていた者には言われてみればそうかと頷ける。短い時間だったから多くの人物を語ってもらえなかったが明治以降や戦後に政治、経済、教育と表に立ったり、陰でサポートしたりと活躍したたちが大勢いたことを思う。はっきりとキリスト者であることがわかる人もいれば、言われてあぁそうだったのかと頷ける人と色々だが社会に貢献しているのには変わらない。聖書からの話が多い中こういう視点から話されるのもいいものだ。群馬県は内村鑑三を始め著名なキリスト者が輩出している。信州にもいるがその比ではないであろう。でも改めて信州のキリスト者という観点で調べてみたいものだ。ある牧師の奥さんの実家は伊那と聞いている。自分は三代目でおじいさんは内村鑑三から信仰を受けたようなことを言っていたように記憶している。信州は内村鑑三から影響を受けたキリスト者は多くいたのではないだろうか。前にいた集会のH姉は諏訪に無教会の集まりがあるよと言っていた。

2013年11月1日金曜日

いのち

昨日O兄のMちゃんが耳の手術をして無事に終わった。Mちゃんはお母さんのおなかの中に居るときに頭に腫瘍が出来て、生まれて一ヶ月くらいのときに頭に出来た大きな腫瘍の手術をする。そのときの手術で耳の穴が小さくなっているので中耳炎などになったら治療が出来ないとのことで耳の穴を正常に戻す手術をされた。生まれてまもなく大きな手術をし、四歳でまた手術である。耳の手術は術後も痛みが続くようでそれが心配である。

臆病なサルは最近、TVのボリュームを一つか二つ上げないと良く聞こえなくなった。東京にいるときは一、二年くらいの感覚で耳垢を取ってもらっていたからこちらに来て5年になるのに一度も行っていなかったので耳垢が詰まったのかなと思って医者に行ったら耳垢はたまっているがその所為ではなく、単なる老人性難聴、もう少し悪くなったら補聴器が必要になるそうだ。中学生のときに運動会のスターターをやって、耳栓をしていなかったので右耳が耳鳴りがして、二十代前半で左も鳴るようになった。それからもう半世紀、静寂を知らないサルである。その影響で難聴になるのかなと思っていたがそうでもなさそうだ。同じ世代の人でもう補聴器を使っている人もいる。耳垢を掃除してもらったとき、左は痛くは無かったが右は痛くて思わず顔をしかめてしまった。もう少しやっていたら悲鳴を上げてしまっただろう。耳垢をとるのに耳をほじくられて悲鳴を上げるサルと四歳で二つの大きな手術したMちゃんとは比較の対象にもならん。産婦人科医の書いた絵本の中に「私はあなた方を選んだ」と赤ちゃんが親に対してそのようなことばを言って生まれた来たことが書かれている。親が選らばれて大丈夫育てられると安心して生まれてくるのである。Mちゃんはこれからもまた幾つかのハードルを越えなければならないのだろう。彼らはそれをクリアーしていくことを信じている。だから生まれた来たんだ。彼女はいのちの尊さ、すばらしさを教えてくれる。そして強さも。

2013年10月25日金曜日

「細川ガラシャ婦人」 三浦綾子著

義姉の家の整理を手伝っていたら処分する本の中にこの本があった。名前と明智光秀の娘であることくらいはは知っていたがそれ以上は知らないのと、何かで読んだ中で光秀は世に言われるような人ではなく、むしろ信長に問題ありのようなことを記憶していたので読んでみようと処分の中から持ってきた。

歴史を知らないサルにとって戦国の信長、秀吉、家康と続く流れを少し垣間見ることが出来た。読み終えて幾つかのことを感じた。まず作者がクリスチャンであること、ノンフィクションでありながら多分身びいき的にフィクションが入っているだろうなということである。以前にペテロ岐部のことを書いた「パンくずを拾って: ペトロ岐部」中で触れたが遠藤周作の「銃と十字架」にもそのことを感じた。同じペテロ岐部を扱った松永吾一氏の方が寄り史実的かなと、もちろんその辺の歴史的な知識は皆無であるから感覚的なものである。遠藤周作氏は同じカトリックという立場がより身びいき的に書かれたのかなと思っている。しかし極端に身びいきとは思っていない。中立からちょっと右くらい?
三浦綾子さんはプロテスタントであるが「玉子」を純粋に同じ信仰者として、そして同じ女性としての目線で書いているような気がする。歴史家が書かれたらまた違っているのだろうなとも思った。図書館のリストを見たら「細川がラシャ」の本が幾つかあったので2冊ばかり予約した。また違ったものが見えるかもしれない。

予約した本にどのように書いているかわからないが極端な言い方をすると光秀が善、信長が悪のパターンが割りと鮮明だったような気がする。ちょっと単純か(サルのレベルはこれくらいのもの)、今までのイメージがあったからかもしれない。これも以前書いた「 「鎖国」を読んで」和辻哲郎氏の信長の評価はいい。秀吉や家康が駄目なこともあるのかもしれない。どちらにしても人はある面しか見えないもの「・・・象を撫する」である。

キリシタン禁制となっていく中で、そこに人と時代の流れが微妙に絡まっていることを感じた。今日でもそうだが優れた宣教師は今も人々(一般人を含めて)にその信仰と霊性が語り継がれている。逆に目に見える形で華々しく活動している某国の宣教師?は色々問題を起こしているようだ。それも裁判沙汰にも、形は違ってもこういうことである。それと前にも書いたが当時のキリシタンは今日のキリスト者と少し違うのではないだろうかと思う。命がけの信仰であり、当時は諏訪大社がある因習の比ではないだろう。そこを喜んで信じていくのであるからすごいと思う。鎖国前の日本人は鎖国によって矮小化されていない日本人であるのかもしれない。明治初期までキリシタン禁制を敷き、天皇を現人神にして、天皇制を台無しにしてしまった人たちと比べ、何か人格と人格が触れ合って、キリスト者になっていくそんな姿をキリシタンの人たちとダブル。聖書を手にすることはなかったのだろうから宣教師のことばを神のことばとして捉え、迫害の中に真実と誠実を持って実践して行ったのだろう。



1cor: 8: 1
次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。





2013年10月23日水曜日

あれこれと

ちょっと野暮用があって上京したいなと思っている。9月には用だけ済まして帰ってきた。しかし、家内は疲れるからと嫌がるが、何時もはどうせ行くならあそこにもここにもと思ってしまう。事実そのような行動をとる。「脳に悪い七つの習慣」のひとつを実行しているようだ。前にも書いたがこちらより東京の雑踏の中に居るとどこかほっとする。映画の題名ではないが「群集の中のひとつの顔」という気安さがあるのだろう。それに非日常ということもある。隣が大家さんでリンゴ園をやっている。縮小して頼まれれば送るけど殆ど自家用にしているとかこれが最後かもしれないので少し分けて貰って配ろうかなと思っている。信州で食べるりんごと暖かい東京で食べるりんごではだいぶ味が違う。自己満足かなとも思っているがどうなるか。

ことば

いつも不思議に思うことがある。本人が何気なく語り、そのことを忘れているのに聞いていた人がしっかり覚えていて、この人はこういうことを考えているとかこういうことをしようとしていると、その人を判断していることである。また逆の立場で同じことが言える。この人はこういうことを考え、こういうことをしようとしていると思っていたらある時そのことを話をしたら全然そんな気がないことを知ることがある。サルも「えっ」と言われたことがある。何気なく話し、それをしっかり受け止めて聞いている。この差は何なのだろうか。主と我との関係もそんなことが多いかもしれない。主がしっかり語っているのに上の空で聞き、こちらが何気なくつぶやいたのが主にしっかり聞かれている。それが何十年経って形になるなんてことはあるのだろうなと思う。落ちこぼれのキリスト者に主は何を語り、主に何をつぶやいたのかそれが形に表れるのかあれこれと思い巡らしている。

2013年10月22日火曜日

脳に悪い七つの習慣

4年前に出版された林成之氏の「脳に悪い七つの習慣」を題材にして日曜日に話をした。その七つとは、
1、「興味がない」と物事を避けることが多い
2、「嫌だ」「疲れた」とグチを言う
3、言われたことをコツコツやる
4、常に効率を考えている
5、やりたくないのに、我慢して勉強をやる
6、スポーツや絵などの趣味がない
7、めったに人をほめない

ネガティブなサルはみんな当てはまる。
何故脳に悪いかは、脳の本能は「生きたい」「知りたい」「仲間になりたい」の三つだけだそうだ。ある意味で肯定的で、前向きであり、否定的なものはない。この七つは否定的である。3や4は否定的でないように見えるけど脳に刺激を与えるような働きをしそうもない。
堕罪前のエデンの園を思い出す。あそこも否定的なものは何もない「それは極めて良かった」。

しかし、この三つの機能を守るために、後天的な本能として「自己保存」と「統一・一貫性」が生まれたと、前者は「脳は自分を守ろうとする」「生きたい」という本能に根ざして、「生きていくために自分を守る」。後者は「統一性・一貫性が保てなくなるような情報を避けようとする」、「正誤を判断する」、「類似するものを区別する」、「バランスをとる」、「話の筋道を通す」といった働きをする。しかしその半面、脳が間違いを犯したり、脳のパフォーマンスを落としたりする原因にもなるそうだ。多分ネガティブな発想の持ち主だとこのバランスが崩れ、自分を守ろうとすることがマイナスに働いてしまうのではないだろうかと思う。
否定的な発想は堕罪後に起きている。「・・・この女が」、「蛇が・・・」と二人とも「わたしが悪うございました」とは言わない。考えてみればこのパターンは自分を含めて我々の世界でしっかり生きている。本間俊平はこんなことを言ったそうだ。「みんなが優秀な家族は争いが絶えず。駄目な家族には争いがない」。それは、たとえば物に躓いて怪我をするとして、優秀な家族は自分が悪くなくて置いた人が悪くなる。だから「lここに置いたやつは誰だ」となる。駄目な家族は「躓いた自分が悪いorいや置いた私が悪かった」となるそうだ。示唆に富んだ例えである。駄目なのに優秀と自覚しかないサルには耳の痛い例えである。
第二の本能がネガティブな発想では脳に悪いのがよくわかる。これは堕罪後の二人の姿がダブル。罪はネガティブに働く、神はポジティブである。第一の本能と第二の本能に堕罪前、堕罪後の違いを見る思いである。林成之氏には失礼だが少し発展させてしまった。

昨日、今日は

2,3日前は室内でも上に何かを羽織らないと寒いくらいだったのに昨日今日は暖かい。それも今日までのようで後は気温と天気は下り坂、秋晴れとか行楽シーズンとか言われるが変わり易いのは秋の気候かなと、昔から「・・・と秋の空」は変わりやすいとか言われているから秋は天候はそれほどでもないのかなと思って諏訪地区の昨年の10月のお天気を調べてみたら雨無し、曇りは9日間、後は晴天である。おぼろげな記憶とかそれに付随した感覚は結構いい加減なものだ。でも寒くなってから暖かい日があるとほっとする。

2013年10月20日日曜日

信州の秋は

信州の秋は短いと聞く、確かに9月の半ば頃まで気温は20度はあったのに今日当たりは暖房が必要である。山は色づいているがこの辺はまだ緑一色、今年の冬は寒くなるとか言われているがその兆候がこんなところに出ているのだろうか。しかしお気に入りに入れている釧路の牧師のブログにはもうスノータイヤの交換をしたと書いてあった。もうひとつの元牧師のブログにも10度を割っているとか北海道に比べたら信州なんかは比較にならないだろう。しかし東京から来た者には寒さは苦手である。こんな寒さは序の口、年が変わればマイナスになる日が続くのである。確実に寒くなってこれが4月に入るまで寒さと付き合わなければならない。知人は上高地にに行く途中のところに住んでいるから諏訪地区なんかと言われそうである。

先日原村の自然文化園に落ち葉拾いのボランティアで行って来た。あそこは上の駐車場から下の芝生のあるところまでの高低差はビル5階くらいある。芝生に落ちている落ち葉を熊手でかき集めているので目は地面を見ているだけである。その時は何も感じなかったが昼レストランで食事をしているとき外を眺めてあぁ信州だなぁと思わされた。建物は駐車場より低いがそれでも園の高いところにある。だから窓から見えるのは芝生にある白樺の木の上の部分である。その先に車山だろうか。白く見える白樺の木と緑の葉、葉、上の部分しか見えなえが目に入る景色は癒しを与えてくれる。信州の魅力と苦手とする寒さ、これはもう少し好きになるように努力しよう。

2013年10月14日月曜日

コタツを入れる

今朝起きたらそれほど寒くはなかったが15度、机に座ると足元が寒いのでついにコタツを出す。出すといってもコタツはテーブル代わりに使っているのでコタツ布団をかけてコタツ本来の形に戻しただけである。コタツはものぐさにはとてもいい、パソコンは打てるしそのまま横にもなれる。それに資料なりに読書にと本を脇に置いておけばすべて用が足りる。今コタツに入ってパソコンを打っているが実に気持ちがいい。ただケーブルが掃除するときにちょっと邪魔になるかなと思うが掃除機をかけるのはサルである。「おじいさんは山に柴刈におばあさんは川に洗濯」ではないが家内が洗濯をするので必然的にサルが掃除機をかけることになる。掃除機をかけるといってもその辺は四角い部屋も丸く的にやるからそれほど苦ではない。家内はその辺は承知していて、やらないよりはやってくれたほうがと思っているから目をつぶっている。ただ、家内がやると丁寧にやるからパソコンは面倒な代物である。これからコタツを使うようになったらどう生活が変わるかちょっと大げさかな。

再びクロムへ

パソコンがわかっているわけではないのにいじっておかしくしてしまい再インストールして貰った。その時はエクスプロラーだったのでクロムに変えたらまた動作が鈍くなりエクスプローラーに戻す。最初はよかったがクロムを使っていたから何かと不便で再びクロムへ、割と順調に動いている。これからは面倒でもあまり色々のものを出さないようにしていけばいいのかなと思うがこれも素人考えかな。

2013年10月2日水曜日

クロムからエクスプローラへ

以前に便利だからと息子がクロムにしてくれた。確かに便利でよかったがだんだん遅くなり、最近ではしょっちゅう「ページ応答なし」で固まってしまう。プログラムの使用頻度「低」のものを幾つか削除したらさらにだめになって動くのが超スローになってしまい、それにメールが送信はいいのだが受信がだめになってしまった。再インストールを試みたが前にできたのに出来なくなってしまった。光を入れたとき設定に来た方に連絡して来てもらった。ひどすぎて再インストール、3時間ばかりかかってようやく動くようになる。メールも回復し、ネットもパッパと動く久しぶりの早さである。エクスプローラになっていたのでクロムに変えたら同じように遅くなってしまった。エクスプローラに戻し、クロムに「お気に入り」が残っているので移し、よく使うものを常時見えるように出来るのでクロムとあまり変わらない。それ以上に別のバー?にも出来るのでさらに便利だと思った。クロムにしろエクスプローラーにしてもほとんどわかっていないのでどこがどうと云われてもわからない。いじっているうちに動き、いじっているうちに動かなくなるが我が常道、これからはあまりいじらないでおこうと思ったがもう動かしてしまった。それに7年もたっているので再インストールしてもと思った。バツが出るのも2,3ある。しかし、使うのに差し障りがない。ブログもエクスプローラでは書けない。PCに残っていたクロムを使うと出来る。それで今打っている。後、半年持つかそれ以上に持たせるか?もうだめなかなと思っていたからほっとする。しかしどこまで持つか。その前に今年の残りはどうなるかだ。

2013年9月18日水曜日

日々の大切さ

お気に入りに入れている後藤先生の「どこかに泉が湧くように」の中に「ジャン・バニエという人が、生活共同体において大切なのは、非常に単純な日常生活の繰り返しに幸せを見出せること、と語っていました。」と読んでハッとした。東京に行って、非日常の生活にホッとするものを感じると書いた後だったからである。このことはある意味で普段の生活に満足していないという事でもある。リタイアしてそれ程忙しくもなく、時には一日がだらだらと過ぎていくこともある。子育て、仕事、または何々をという目的は今なく、あっても断片的なものである。しかし、目的があればいいというものでもない。内面的なものであろう。共同体にしろ、個人にしろ「非常に単純な日常生活の繰り返しに幸せを見出せること」は大切なことはわかるがそう簡単ではない。このことを覚えながら色々思い巡らしてみたい。

2013年9月14日土曜日

THE BIG ISSUE

東京に行くと必ず買う雑誌である。車で行っても一日は電車で移動するから大体新宿を通る。秋葉原や神田方面に行く時は御茶ノ水に寄るがそれでも行きか帰りかに新宿のオアシスにも必ず寄る。それにヨドバシカメラもあるのでここも時間があれば寄る。定番コースみたいなものである。そして南口の甲州街道の交差点にタイトルの雑誌を売っているおじさんがいるので必ず買う。雑誌を持って手をかざしていてもあまり買う人はいない。これがどんな雑誌か知らない人が90%以上だろう。
これが就労支援の雑誌なのである。定価300円で160円は販売員の利益になる。そしてお金をためて自立していくのだそうだ。中にはホームレスのような人もいるようだ。しかし自立しようとしている人だけが売っている。サポートするためには買ってあげてほしし。ドトールのコーヒー二杯分でお釣りが来る。見かけたら人助けだと思って買ってちょうだい。人は助けたようで助けられていることを知るでしょう。その経験をしてください。東京では賑やかな街角に立っています。礼儀正しいですよお願いします。

非日常

一昨日東京に日帰りをしたが車ではなく高速バスで行った所為かノンビリすることが出来た。片道2時間半のバスではゆっくり本も読めたし、異動も電車の中ではただ乗ってればいい。銀座4丁目の丸の内線の乗り場は結構歩くがそれも大したことはなかい。乗って荻窪の字を見て新宿から東高円寺まで通勤で乗っていたことを思い出し懐かしさを覚えた。狭い通路に大勢の人がいてもその流れ逆らうことなく歩いていたから何の抵抗もない。忙しい生活ではないが普段の生活から離れて行動するとたとえ忙しくともどこかホッとする。非日常的な生活って精神的にいいのかぁ。何故か落ち着く、バスから降りて車で走り出した途端何か現実に戻ったみたいで、また毎日の日常が始まるのかとそれでも夜中に殆ど車が走っていなかったからよかった。これがもっと車が走っていたらより現実的になって面白くなかっただろう。

2013年9月13日金曜日

とんぼがえり

いつもの時間に起きて朝食を取り、8時前に家を出る。車で岡谷インターから高速に入り、諏訪インターで下りる。指定の場所に行くと10台からの車が駐車していて、中型の観光バスが停まっていた。掃除をしている人がいたので「この車」と聞いたら、「この車ではなくて後で来ます」と待つが定刻になっても来ない。ここが始発ではと思ったが松本から来るそうだ。数人が集まっているだけ、これではと思ったがそういうことで納得、少し遅れて到着して乗るとそれなりに人は乗っている。中型の観光バス。車中で恵信さんの本を読むが東京近くまで目も気分も大丈夫でホッとする。道を挟んだホテルサンルートの前に新しい発着場が出来ていて、幾つかの業者が共用しているようだ。

オアシスの前を通ったので時間がなかったがつい覗いてしまった。本を読むように度の一番強い眼鏡にしていたので本のタイトルが素ではボケるし眼鏡をかけると更にボケる。いつも使っているのだと丁度いいのに二つ持って来なかった事を後悔する。配置が変わったりしているのと正しいかどうか分からないが以前来た時よりハウツーものが多いような気がした。気の所為かな。そこでH姉妹と会う、幼稚園の子供さんが健康診断で近くに来ているので時間があって寄っていたらしい。誰にも会うつもりはなかったので・・・。

早々に失礼して駅に向かう。携帯を切っていたので開けたらK君から、静かなところで電話する。パスモをチャージし地下鉄で行こうとしたが乗換えが分からずJRで有楽町まで行く、銀座4丁目を目ざして歩くが和光は思ったより近かった。そこを右折して次の信仰を左折と信号を変わったので交差点の手前で横断。角でK君が立っていてギャラリーに案内してくれた。田舎からMさんが来ていた。同じ集落のAさんも名古屋から来ていて、半世紀以上ぶりの再会、何時だったかも同じ集落のEさんも小学校以来で分からなかった。回りは知っていても本人同士は「あなた誰?」の笑い話になる。サルは観るだけだが彼女は人物画を描いているそうだ。一通り観て、Kさんのも観る。田舎のMさんの裏から風景を絵にしたと言っていた。稲の間の水の色が独特である。それが冴えると思ったがどうなのだろう。そのうち習志野から何時も一緒のSさんとSさんが見えて彼女たちも一通り観てランチへ、近くで三崎からの店で刺身丼を食べる。それから浅草へ、子供が小さい時以来だからホントに久し振りである。あの時は人が少なかったが賑わっていた。外国からの人が目に付く、東南アジア系のツアーも目に付く、panasonicの小旗を持っていた人も東南アジア系の人だった。それに東建のハッピを着た人もおり、久し振りで昔と違うなぁと感じたが実際はどうなのだろう。
昔、お客さんの家が仲見世で着物を売っていて何度が届け物をしていたからあそこに行くと懐かしさを感じる。少し歩いて隅田川の対岸からスカイツリーを見る。Mさんは既に展望台に昇ったそうだ。東京タワーもそうだが地元にいるとすぐ行けるからとそのままが多い。また浅草から戻り、ギャラリーで少し交わって、下の息子と新宿で夕食を共にするので失礼する。彼らは夕食も一緒にするらしい。MさんとAさんは近くのビジネスホテルで予約を取っていた。翌日は皇居近辺を散策するらしい。東御苑を勧めてが金曜日は休みらしい。東京駅を外から眺めてもよいなぁと思った。

丸の内線で新宿に向かい新宿三丁目で下りて伊勢丹口に出る。デパートに入ったらそこは食品というかお菓子売り場、思いついて家内にお菓子を買うがデパートはそれなりの店が出店しているのか高い。そこを出て電話をしたらもう本人は近くに来ていた。ルミネのレストラン街で食事をし、混んで来たので別な所でお茶と捜しながら歩いていたら発着場の隣にドトールのような喫茶店があったのでそこで時間いっぱい話をする。ネット関係の勉強をしているが就職はどうなのか資格試験を一つは取らないととその準備をしているらしい。サルも五十二歳で失業した時、再就職は初めての仕事だったから大学の新卒並みだった。それでも仕事に就ければいい。時間が来たので喫茶店を出て、「見送られるのは照れくさいから俺は左、お前は右に」と言って分かれる。首都高速は継ぎ目がゴトゴトするので中央道に入ってから朝の残りの部分を読む、八ヶ岳SS辺りかな目が疲れたので目を閉じて終点まで、11時少し前に着いて家内に電話して走るが殆ど車はなし、30分で着いたがここが都会と違うところ寂しい。こちらに来て感じた事は都会の雑踏の中にいると何故かホッとする。映画の題名ではないが「群集の中の一つの顔」であるからだろうか。談合坂でトイレ休憩丁度一時間チョッと時間的には真ん中なのである。お金も安いし新宿の駅前に着くしバスもいいものだ。これから一人の時はこれにしよう。チョクチョク行きたいものだ。

2013年9月7日土曜日

読後感

「福音の再発見」を読み終えた。活字も大きく平易な言葉で訳されているがサルには簡単に読めない本である。福音という言葉に疑問はないけれど福音という言葉はもっと幅の広いものではないかなと漠然と思っていたことと天国にという言葉が強調されて、救いが全てであるかのように語られていることに多少疑問を持っていたのとサブタイトルに「なぜ、多くの若いキリスト者が、今日、教会を去ってしまうのか?」のタイトルにも惹かれて買った。しかし、これは勤めても長続きしない息子のことで悩んでいた時、「若者はなぜ3年でやめていくのか」多分こんなタイトルの本があって買ったことがあった。読んでみたら能力のある若者が会社の旧態依然としたやり方に不満をもって辞めていくことだった。息子と対極にあるのでこれは違うと思った。去っていく信者を思い浮かべて、少し心当たりを感じる。これは「福音」理解と違うかもしれないが。

書かれているのはアメリカであり、著者は新約の聖書学者である。大学で学生に聖書を講義している。聖書を知り尽くしている方である。そこから今日の「福音」理解に疑問を呈している事はそれなりに意味があることかもしれない。

高校生の時に信仰を持ち、教会のありようはサルが生まれ育った教会と同じ様な形態をしているようだ。そこで経験していることが今日の「福音」理解につながっているようだ。サルが生まれ育った教会は牧師制を取っていないというよりそれに否定的である。神学なども否定的ではないのかな?
指摘されている救いが強調されている福音主義の教会である。福音主義の教会からも異端視されているのかな?コチコチの原理主義なのかもしれない。

信じるだけでなくキリストの弟子としていく伝道が必要であるとの指摘はまさにそうであろう。産後の肥立の悪いサルは逆説的な意味で頷ける。そのことを思うと以前いた教会が大きくなったきっかけは、教会関係の宣教師ではなく、ナビゲーター関係の宣教師だった。彼は教会のやり方を踏襲しながら形だけのやり方に疑問を呈し、少しづつ変えていった。独身であった所為か若い学生や社会人と生活を共にして、若者を育てていった。また喫茶店やレストランで食事をしながらマンツーマンで勉強会をやったりしていた。サルは食事をして交わるくらいだった。勉強したり何するには硬すぎるからこのくらいが精々だった。今教会の責任を負っている責任者の何人かは彼が若い時に育てた人たちである。知人は家を新築した時、日本に来た時に使うために部屋を用意していた。彼がアメリカに帰ってから日本に来た時にある国会議員から教会に電話があった。彼も弟子のようである。彼は多くの人に信頼と尊敬を受けていた。生きて働く信仰が他者を生かすのだろう。

人間完璧ではない。カトリックからプロテスタントそれをプロテストしたと言われるわがグループ、だからと言って物事が解決したわけではない。問題は相変わらずあるのである。そこにあるのは人間の肉の問題が解決していないからである。牧師や指導者は真に謙遜でない。そんな中に集う信者は問題を指導者に仰ぎ、それを解決の糸口とする。○○はこう言ったという風に、聖書から言えと言えたくなる。前にも書いたが高橋三郎先生は信者に対して、自分たちが立っている信仰の自負を戒め、今ある信仰はプロテスタントの信仰、カトリックの信仰から受け継いできたものであることを忘れないようにそのようなことを言われていた。確信が強ければ強いほどこの危険性はある。サルが出来ているわけではないし寧ろ下の下に存在している者であるが。

良きサマリヤ人

イエス様の譬話は分かりやすいというより単純であり、聞き様によっては結構皮肉的である。しかし、
「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです(matt:13:13)」
とあるように結構理解されなかったようである。律法学者はあからさまに自分たちのことを言っていることがわかったみたいだ。それといざ実行するとなると至難なのである。ここがイエス様のイエス様たる所以かと変な所で感心している。
サルにとって神学とか学とつくものとは全く縁がないから聖書をそのまま読んでいる。そして、こういうことをやっている。
それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです(2pet: 1:20
牧師のみならずまともなキリスト者ならあきれるであろうことを実にまともなようにやっている。集まっても数人、兄弟は三人だから月一で聖書の話をしなければならない。信者でない方もいるので福音になったり学びになったり両方だったりと中途半端になることは多々である。
そんな中で、月に一回東京からM伝道者がファミリーで、その時に若い兄姉も一緒に来られるので総勢15-6名からになる。何時もは午前中だけだがその時は午後もあり、あぁこれが集会だと実感する。まさに至福の集会である。そして、
彼はいたんだを折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまではmatt:12:20。この言葉の通りで、折れそうな消えそうな信仰に励まし恵みを頂く、故に至福なのである。奉仕のない者でも朝から晩まで(少し大袈裟)しっかりスケジュールのある集会にいた時は不平タラタラだったが現金なものである。「いい加減が着物を着ている」サルではあるが。

そんな中で15日に話す。今回は「良きサマリヤ人のたとえ」からと少しづつ準備している。ここは何回も聞いた所であるが二つばかり気付かされた。面倒な事にかかわりたくないという見方をすれば祭司やレビ人はまさにそうである。しかし、裸で倒れて半死半生の様だったら彼らは神殿の務めに差し支えるのではないだろうか。もし死んでいたらレビ記や申命記に死体にふれたら穢れると書いてある。もしそうすると神殿の務めは務まらない。彼らは同情心がないからではなく、大切な神の神殿の務めを優先したに過ぎない。考えてみればこんな事は今日でもある。個人を守るか全体を守るか、そしていつも個は後回しになっている。社会もそして教会もという感じを受ける。サマリヤ人を褒めるということは自分を批判している事だ。ナタンに叱責されたダビデのように自分のことはわからないのである。人には色々肩書きがあって、それで自分を束縛している。サマリヤ人はそんなものはなかったようだ。死人かもしれないがもし生きていたらと介抱したのだろう。彼に拘るものは何もない。同じ様に罪人の所に行って「あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」と言われても頓着なく彼らと共に食事をし、飲み回っていたイエス様も何も拘るものはなかった。





2013年9月4日水曜日

オイター

先日知人が入院したので病院に尋ねた。三階なのでエレベーターでなく階段を利用したら五、六段上がったところで膝が痛くなってしまった。移動は車か自転車、歩く時は平地、坂もない。だから膝が弱っていることを確認できない。こんな事があると初めて分かる。時折、歩くよりは自転車がと思って乗っているが今は数キロくらいであるから膝に負担はかからない。緩やかな坂にはなっているがギヤダウンすればそれ程苦は感じない。

最近まで、テレビ東京(ケーブルテレビなので観れる)のWBSを観て布団に入っていた。最近は、途中で眠くなったりするとそのまま布団に入る。昨夜も阿倍さんのブレーンである濱田さんがゲストとして出演していたがそれを脇に見て布団に入ってしまった。ある時は十時代のドラマを観ていて眠くなったので寝たら夜中の三時に目が覚めてしまった。これから夜が深まるというときである。
朝は朝でというより早く寝た分早く目が覚めるから夜中に目が覚めてトイレに起きてそのまま起きて本を読んだりパソコンを見たりする。それから一、二時間起きてまた寝て、六時前か7時前におきる。最近は時間が前後するがこんなパターンである。
お陰で日中よく寝る。まず朝起きて聖書を読み、朝食食べると眠くなり、そのまま横になり一時間くらい寝る。午後も一回くらい横になる。下手すると二時間くらい寝ている事がある。それと集中力がなくなったから本を読んでも字面を追っている事が多くなった。小説等はいいのだが聖書関係の本はそれ程難しくないと思われるのでも駄目である。そういう今ももう眠くなってきた。現在時刻午前十時十五分、これから寝る。

2013年8月29日木曜日

ひしがれた心



人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか。
                                            箴言 18:14


知人の女性の方がめまいと吐き気が酷くて入院された。病院に尋ねた時、特別の治療をされているわけでもなさそうなので、暑い日が続いてお盆も近づき普段でも忙しくされているので過労かなと思った。少し前に会った時に疲れ気味の顔をされていたのでこれ以上にスリムにならないようにといっていのだが・・・。倒れないと駄目なほど頑張る方なのである。
最初に尋ねた時は少し落ち着いた顔をされていたのでホットして帰ってきた。2週間で退院が延びたので再度尋ねたら落ち着いた顔が消えていた。先のことを考えると不安でしょうがない旨言われ、看護師さんにも言って慰めてもらったと、少し落ち着いたようなことを言われたが平安のある顔ではなかった。

頑張り屋で仕事での集中力はご主人も感心するほどである。妹さんが亡くなられた時、中学生になろうとしていた一人っ子の甥子さんをわが子のように面倒を見ていた。茨城に住んでいたから近くではない。色々弱さを持っているが自分がコウと決めたら人がどう言おうとやっていく強さがあった。彼女を観ていてまさに箴言の前半の言葉を実践してきた。しかしその強さが崩れた時、心は精神的におかしくなるほどに耐えられないのである。彼女に限った事ではない。サルも何度かそんな経験がある。マイナス思考の上、トレードマークのように「顔はでかいが心臓はノミだ」とよく言っていた。忘れっぽいサルは何で解決したのか記憶にないが絶望がぴったりだった。

考えてみて、キリスト者として固く立っていたとしてもそれがキリストの上に立っているか否かはアクシデントが起きた時に明らかになる。健康、能力、経済、社会的地位等々、これがキリストに固く立っているような錯覚を与える。真実の姿を見せられるのは辛い。しかし自分の真実の姿を見せられる事は感謝な事、何故ならその前の自分は虚像に過ぎない。歳と共にそんな姿を見せられていく、嬉しくないが感謝な事だと思っている。そして主は「耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません」(1コリ10:13)。まさに紙一重の所で留めてくださる。そんな経験を重ねながら人は謙虚になっていくような気がする。何度も経験しながら謙虚とは程遠いサルではあるが。今まで彼女は「病苦をも忍ぶ」事ができた。これから「ひしがれた心」になった時キリストを必要とする事を経験するだろう。サルもこれから何度こんな経験をさせられるのだろうか。

この地上は移り変わっていく、確としたものはない。たとえどのような事であれ、喜び、感謝できる事は幸いな事である。しかし「たとえそうでなくとも」感謝な事だ。立つべきものはこの世のものではなく「みことば」だからである。こんな言葉を「信じます。不信仰な私をお助けください。」(マル9:24)と何度も繰り返すのだろうな、その度に、この約束のみことばによって立つことができるだろう。

わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(ヨハ14:27)
               








2013年8月23日金曜日

平和の道を知らない

今日は朝から曇り空で午後からは雨になった。夜になっても降ったりやんだりしている。お陰で暑い夏は一服の感があり、暑い夏も一区切りかと思わされている。東京辺りはゲリラ豪雨?で大変のようだがこちらは一息ついている。光に変えて、ついあちらこちらとアクセスしているがそれも一段落して、今ブログを書いている。

メールやブログを書く時は、元々そして今もだが文章を書くのが苦手なので時間がある時でないと書けない。携帯は短い文章でいいのだが逆に変換が面倒なのでこれも苦手である。手紙を含めて文とつくものは苦手である。だからブログなどを書いている。多くのブログは何かを発信しているように見受けるがサルは読める文章を纏める文章をの願いで書いているが簡単ではない。


今週前半は珍しく何かと用があって時間を取れなかったが漸く凌ぎやすい天気もあって時間が取れるようになった。今日の凌ぎやすい一日に、もう猛暑も踏ん張れなくなったかのなとの思いに少しほっとしているとこの8月を振り返ってみたくなった。8月は広島、長崎の原爆投下の記念日があり,その後の終戦記念日がある。そしてお盆があって、何かと区切りのつく月ではないかなと思う。気候だけでなく、暑くなったり冷静になったりしないといけない季節でもあるのかもしれない。

原発事故以来、放射能の問題がクローズアップされている。福島の原発の惨憺たる姿を見ていると事故の解決を思考しているというより国民に何かやっていますよとアピールしているに過ぎないのではないかと素人なりに考えてしまう。根本的ではない。或いは手立てがないのかと思ってしまう。こんな危険なものを安全ですと国も電事連も国民を騙していた事のツケの大きさを思う。こういう危険もありますよと国民に伝えていれば電力会社も国民も心構えは大分違うと思うのだが。それとそのような危険なものを輸出しようとしている事自体信じられない。「トイレのない高級マンション」誰が住むだろうか。汚物を垂れ流して、処理の方法が確立していないなんて唖然とするばかりである。

広島、長崎、終戦の記念日の式典はTVのニュ-スでチラッと観るだけだった。政治家の言葉だけの中身のない文章は聞くだけ無駄である。好き嫌いは別にしてもアメリカの大統領の演説のうまさに感心してしまう。聞くものに訴えかけてくる。それが受け入れられるか否かは別にしても。政治家に限らず日本人はその辺が下手である。そして8月は靖国の問題がある。何故あそこだけに祀らなければならないのか、中国本土,台湾,朝鮮半島の人たちの中には日本人として戦った人もあろうにそれが差別されていることもあるようだ。細かい事情は分からないがどこかメリハリがはっきりしていない。国のために命を奉げたと政治家は言うが奉げたわけではない。命を奪われたのである。命を奪って、年に一回靖国に行って事終われリではまさに英霊は浮かばれないであろう。そのような事が起きない為に政治家として何かしてる?何かしているとしても本質のものではないであろう。

根本にあるのは「彼らの目の前には、神に対する恐れがない」(rom 3:18)。人は何を恐れるかによってその人の生き方が決まる。クリスチャン、ノンクリスチャンに関係なく単純である。色々と言動を通して平和を希求しているようでも「彼らは平和の道を知らない」( rom 3:17)。と言えるかもしれない。イエス様の生き方が「平和の道」を具現している。それは美しくも力強くもない。イザヤ書五三章を通して具現された。基督者もこの道は好まない。しかしここにしかないように思える。お前はと問われた今は答えられない。いつか答えられたらと願っている。

2013年8月22日木曜日

早い

何時か光にと思っていたが今日ようやく光に変えた。ネットの検索をすると早い。お気に入りに入れている一つのブログは映像が多い所為かすぐフリーズしてしまう。そのうち「プラグインshockwaveが応答していません」と出る。今でも出るが前ほどではないので何とか読める。

以前にNTTの代理店の人かよく勧誘の電話がかかってきた。今の家は人が来ると狭いので出来たら引越ししたいなと思っていたので引越ししたら変えると言っていた。何度かかかってきて最後の方ではまだ引っ越しは?と聞かれてまだ目途は立っていないと言ったらそれからはかかって来なくなった。ほっとしていたら何時だったかチャイムがなるので家内が玄関に出て、何やら話をしているので知っている方でも来たのかなと思っていたら家内が戻ってきてNTTの代理店の方だった。代理店というより受託販売会社が正式な名称のようだ。

色々数字を出して勧められたのでそのまま契約する事にした。何時かはと思っていたし暑い中を来られたのでそれに月額は安くなる計算だったがプロパイダーでは光は今の倍近くなる。と言ってもそれ程でもない。昔に比べたら格段に安いのではないだろうか。NTTは光で苦戦しているようだから必死のようだ。契約したのも話をしている中で東京から来たことを話したら「どちらに」と聞かれ、「多摩だよ」と答えたら、「私は杉並」でこちらに転勤で来ていると言ったので、「杉並の何処」、「清水町です」、「あぁ環八の四面道から入ったとこだね」、「よく知ってますね」と話が弾んでしまった。杉並区の施設の仕事を少しやっていたヨシミもあってか契約に何の抵抗もなくあっさりサインしてしまった。後でよく見たら工事代サービスかと思ったらしっかりあって俺もいい加減だなぁとつくづく思った。勿論後悔はしていない。電話ではどうにでも言えるが家まで来られるとこの暑いのに、それに何時かは入れようとしていた光だから。寧ろ遅いくらいだ。年と共にスローモーになっていく中で唯一早くなったものがあって喜んでいる。パソコンの買い替えもう少し延びそう。

2013年8月17日土曜日

花火大会

この時期何処でも花火大会がある。諏訪地区でも毎年15日に上諏訪の「諏訪湖上花火大会」があり、16日には対岸にあたる釜口水門の前で岡谷の「灯篭流しと花火大会」がる。今回は上諏訪の花火大会が豪雨で中止になったが岡谷の方はお天気良く風もあって花火大会にはふさわしいお天気だった。規模は小さいがすぐ目の前で見ることができ、打ち上げ音がお腹に響いてくる。

前日は午後になって激しい雷雨でどうなるか心配していたが夕方になったらやんだので家内の姉夫婦が確保してくれた場所に行き、食事を始めたらポツリポツリと来て、それが激しくなり近くに雨宿りをして始まるのを待つ、始まる頃に少し小降りになったので戻って2,3発上がっているのを見ていたが本格的な雨になってしまったので早々に引き上げた。姉夫婦の家まで歩いて7,8分、傘を差していながら背中から靴の中までびっしょり、そのまま失礼して帰ってシャワーを浴びてすっきりする。帰えり道、道路が川のようになっていて、ワイパーを最速にしても前が良く見えないくらいだった。走りながらこの雨が長く続いたら、ニュースにあるような集中豪雨の災害になるのだろう。後で市の広報で雷雨と川の増水に注意するようにとの放送がなされて、中には床上浸水の家もあったようだ。

花火大会の出来事は東京のキィ局からも放送されていた。事実、鉄道も止まり、高速も通行止めとか。TVで帰れない人たちが駅前などに溢れていた。今年は隅田川も中止になり、福知山では事故がありで主催者や花火師さんにとっては散々の年になったようだ。

15日には体育館の広い駐車場がいっぱいで停められるスペースがあるところは停められてもう停めるスペースはどこにもないほどである。キャンピングカーもあり、至る所に県外ナンバーの車があるのに驚く、去年までは下諏訪の漕艇場近くで見ていたがそこで中年のご夫婦に会って話をしていたら静岡から毎年来ると言っていた。あそこは諏訪湖の対岸にあたるところである。好きな人は好きなんだなぁと変なところで感心したことを思い出した。県外ナンパーの車の多さを見ていると諏訪湖の花火もそれなりに知られているようだ。「たかが花火、されど花火」か。

2013年8月16日金曜日

終戦記念日に思う

昨日は終戦記念日だった。
全く戦争を知らない世代ではないが殆ど知らない。寧ろ朝鮮戦争が小学校の頃に始まったので毎日のように新聞にその状況が載っていた。地図上に対峙している位置が出ていたので、一喜一憂していた事を思い出す。

いつもこの時期になると複雑な気持ちになる。日本人特有のあいまいさが露呈するような気がしてならないからである。広島と長崎に原爆投下された日時に市の広報で案内があり、一分間サイレンが鳴る。今年は初めてサイレンが鳴っている間黙祷した。昨日は正午にサイレンが鳴ったようだが出かけていて気がつかなかった(我が家には市の防災ラジオがあって広報の放送がラジオから流れてくる)。それでもどこか内向きの感がする。外に向けてのメッセージがはっきりしない。

当時長崎市長だっ本島等さんが議会での質問に答えて「天皇にも戦争責任はあると思う」の発言が大きな話題になり、それで右翼に襲撃されるという事件があった。まさに触れてはいけないものに触れたの感がする。ある意味で触れてはいけないものがあってはならない。
しかし、日韓の執拗な日本非難を思うとアメリカがベトナムで行ったことはベトナム国民はどう捉え、アメリカはどう対処したのだろうか。対外国となると外交下手の日本の姿が浮き上がってもくる。

概観を終えて

先日、メリル・C・テニイの新約聖書概観の「初代教会の諸問題」をパソコンにうつし終えた。「福音書」から始まって、「教会の誕生と推移」の中にある「初代教会の記録」を終え、次の「初代教会の諸問題」が終わった。概観には他の部分もあるがこれでジエンド。いま少しづつ変換違いをチェックしている。引用箇所を確認しながらやっていると遅々として進まない。それに買ってある本が幾つかあるのでそれを読んだりしているので更にである。まぁ復習する意味も兼ねているので急がないでやっている。「福音書」と「初代教会の記録」は終えたのだがもう一度チェックしようと思っている。

信仰生活は長いが聖書は受け売りで知識は勿論実もほとんどでない。「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。」(heb: 6: 1)とあるがまだ初歩を後にするわけにはいかないのである。まして「成熟を目ざして」は論外。お恥ずかしいなんて言葉も出ない。初心に帰って、垢を落とし、「イエス入門」を読んで、スタートである。

「意地悪ばあさん的」発想だが今日のキリスト教界の諸問題はタイトル通りで初期の頃から現代に至るまで変わらないのに驚く、時代は変わっても人の本質は変わっていないということだろうか。
逆に初代教会の問題点を含めて諸々のものを見ていくと答えが見出せるかもしれない。イエス様がどこにあっても中心である。それならブレても戻ることが出来る。それと自分の中にもあるが「主を喜び賛美する」といっても自分の教会の中だけで他の教会の信者と共に喜び賛美できないような固さがある。我が集まりには二つあって、共に交わろうとする姿勢は少ない。ある意味で共有できないということだ。何か大切ものが欠落しているような気がしてならない。

2013年8月15日木曜日

オ・ボーン

昨日からお盆休みになったのか何処となく静かである。お盆に備えて買い物をしているのか昼に西友の前を通ったら何時もより車の数が多かった。それにうなぎを焼いているお店も何時もより多かったなぁ。お盆休みに合わせて、この暑さを凌ぎ、スタミナをつけてこの夏を頑張るためにチョッと贅沢をの発想は・・・。
お盆は先祖の霊が来る唯一の時だから大切にしなければならないのだろう。そのことは分かるが他の時は何処になどと野暮な質問はなし、しかし、良く仏前に報告するというのはその辺の絡みはどうなっているのだろう。お供えも然りである。仏教、神道などは教義は確立しているのだろうがこちらの諏訪大社のいわれを見ても複雑である。少し調べようとしたがこの頭では無理である事を知って早々に諦めた。家内の実家の集落には「洩矢(モリヤ)神社」があり、これが上社に引っ越したと「神長官守矢資料館」の職員が言っていたが「大祝(オオホオリ)」、「御射山(ミサヤマ)」、四月十五日の「御頭祭」、過越しの祭りの近くである。そして神社の裏山には(少し離れているが)「守屋山」がある。興味は尽きないが・・・。
主点をどこにおくかでも見解が違ってくる。地元の人が大切にしているものと余所者であり、基督者であるサルとでは興味の視点が違う。ユダヤ教との関連がよぎる。
時代と共に色々付け足していくような感じを受ける。だから原型が分からなくなってしまう。混交主義なのだろうか。日本の宗教の形態はこのようなものが多いような気がする。日本人の賢さが本質を見失っていく姿に、否、厭いてそれを見ようとしない・・・。日本人の姿このようものなのだろうか。カトリックのマリヤ崇拝なんかも似たようなものか。マリヤに抱かれている幼子イエスは、大人では困るのかもしれない。




2013年8月8日木曜日

ある本を読み終えて、考えたこと

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の冒頭に「大学二年の七月から、翌年のの一月にかけて、多崎つくるはほとんど死ぬことだけを考えて生きていた。」の文章を読んでどういう展開になるのだろうと思うと同時に「つくる」とは好対照な状況であるのに何か共感を覚えた。読み進んでいくうちにそれは消えていったが。

同じ年代にサルも同じ様な事を考えていた。当時、オートバイに乗っていて、これで転倒したら多分死ぬだろうと、半分期待しながら乗っていた。その頃はヘルメットは必須ではなかったから頭を打ったら多分駄目になっていただろう。しかし、何度も大きな事故を起こしてもかすり傷一つも負わなかった。あるときは故障で停まっているスバルの軽に追突して、宙返りしながら車の前に尻餅をついたことがあった。前輪は駄目になったがお尻を少し痛めただけだった。人間のからだはこんなにもよく飛ぶのかなと感心した事を半世紀経った今でもよく覚えている。何度か事故を起こして、「俺は死ねない」生きる算段をしなくてはと思った。そんな時にカトリックのラジオ放送を知り、ある時駅前で一枚のチラシが外人が配っていたので興味半分貰ったらこれがキリスト教のチラシだった。生きがいを求めての信仰だった。産後の肥立ちは至って悪くて今もそれを引きずっている。大人になれないキリスト者なのである。

「色彩を持たない…」の言葉を「つくる」の姿を見て、生活はある種の優雅さがあって、どちらかというと同世代からうらやましい生活をしている設定だが彼には名前だけでなく、いい意味でも悪い意味でも確かに色がない。男としてのギラットしたものもナヨットしたものも、それは年上の恋人という設定もそして彼女に促されて行動している事もそれを裏付けているような気がする。それは友達としてはいいかもしれないが夫としてはふさわしくないというかうまくいかないような予感を与えている。だからか明日彼女に会うという日で終わっている。「彼の巡礼の年」とあるがこの巡礼は終わっていないし、彼の生き方を変えない限り、巡礼は続くけなければならないだろう。リッチなように見える生活が更に色のない「つくる」を浮かび上がらせている。

2013年8月7日水曜日

ある本を読み終えて

図書館に予約して2ヶ月待ってようやく借りることが出来た村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読んでいるというか読み終えた。ちょぼちょぼ読もうと読んでいたが昨夜というか今朝というか夜中に目がさめて、眠くなるまでと読み始めたらつい最後まで読んでしまった。

上村春樹と村上春樹を間違いるほどであるからのファンではない。ただ話題になっているので興味をもって借りて読んでいるだけである。サルは「何だこのふざけたタイトルは」であり、どこか荒唐無稽さを感じてしまう位の認識しか持ち合わせていない。小説が通り一遍でなく、色々と複線が張ってあるのが謎解きのように、「あぁこれはこの事だったのか」と読み進んでいくうちに分かってきて全体が見えてくる。

村上春樹の作品は彼自身を良く知らないと良くわからないのではないだろうか。そこに隠されているものが分かったら更に面白いものになるのだろう。荒唐無稽に隠されているものがある?
たまに話題になっている小説を図書館で予約して読んでいると聖書関係の本は簡単なようでなんで読みづらいのだろうと思ってしまう。翻訳本が多いからかなぁ。正しいかどうか疑問だが翻訳本を読んでいると原語が分かるなら原語から読んだらもっと分かりやすいのではと思うときがある。唯一理解で来る日本語、その読解力の欠乏している者のつぶやきであるが。

2013年8月3日土曜日

話を準備する中で

聖書をそのまま神のことばとして受け入れている中にいると聖書の言葉がパターン化していることに気付かされる。或いは自分だけの事であるのかもしれない。多分そうだろう。今回も、

神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった」(gen 2: 7)

このことばを一くくりに理解していた。しかし、「土地のちりで人を形造り」と「その鼻にいのちの息を吹き込まれた」と「そこで人は生きものとなった」の三つに分かれる。最初は他の動物と同じであるgen 2:19。(この三つは時間差はないのかもしれないが最初のところでは動物と同じ様に生きることが出来たはずだ)。次は動物と違うところである。その結果初めて生きる者(共同訳)となった。動物は最初のところで生き物となった。人は「いのちの息」を吹き込まれて生きる者となった。

神は人をご自身のかたちとして創造された」(gen 1:27)ということはこういうことだったのかと納得した。

そして「神は愛です」(1john4:16)とあるように人は愛するものとなった。しかしそこに深い煩悶が生まれたのも事実である。まさに愛がある故に・・・ 




2013年8月2日金曜日

語るに落ちる?

麻生さんが今話題になっている。
今の世の中でナチスのナの字をいうことは良い事であれ悪い事であれ禁句である。田舎の年寄りでも知っている事を内輪の会で、それに聴衆の笑いを聞いていて何という連中だと思った。一流といわれるジャーナリストが主宰されたそうだが学のないサルでも唖然としてしまった。

まぁあっけらかんと本音を語るあたりはさすが麻生さんだと思った。いつかチョンボすると思ったがこんなに早くやるとは…。アベノミックスが心配だ。鳩山さんもそうだがお坊ちゃまとはこういうものなのだろうな。まぁ形は違うが民主党の何とか大臣だった人といい勝負だ。それでも麻生さん頑張って~。

2013年7月23日火曜日

憤りを超えて

<福島第1原発>汚染水海洋漏れ、地元漁民ら怒り

毎日新聞 7月22日(月)21時57分配信
 「やっぱりか」「なぜ今日なのか」。東京電力福島第1原発の敷地内で出た放射性汚染水について、22日、懸念されていた海洋漏れが「あった」と認めた東電に対し、原発事故の影響で漁自粛が続く福島県の地元漁協は怒りをあらわにした。計り知れない風評被害の拡大へ不信感や危機感をのぞかせた。【中尾卓英、神保圭作、高橋秀郎
今朝、パソコンを立ち上げたらこんなニュースが眼に入ってきた。
選挙が終わった途端にこんなことが発表されるとはうがった見方をしてしまう。
原発被災地は塗炭の苦しみを味わっているのにそんなことは何処吹く風の如く物事を進めていこうとしている姿に憤りを越えて哀れである。政治も経済も亡霊に憑かれたように動いている。
人間のやる事に完全はないが間違っている事をあらたむることの難しさを改めて知る。真実は何処に。

2013年7月18日木曜日

「福音」という言葉

「〈ギ〉ユーアンゲリオン.古典ギリシヤ語では,このことばは良い知らせに対する報いであったり,それを伝えた人への報酬を意味すると共に,その知らせ自体をも指した.元来は勝利の知らせであったが,後には,喜びをもたらす知らせを意味するようになった.」と聖書辞典に載っている。
そういう意味でマルコの福音書に「「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」」(mark: 1:15)と言われたイエス様の言葉は、イスラエルの回復という意味で良く分かる。

しかし、今日福音派といわれている人たちの「福音」は「罪からの救い」が強調されてそれがすべてのように捉えられていないだろうかとふっと思うことがある。勿論これは大切な事であることは良く分かるがこれだけが強調されると「福音」がご利益的なものになってしまわないだろうかと。先日もあるところで「地獄に行かないで天国に行ってもらいたい」と会話の中であった。これもよく分かる。しかし、そのためだけにイエスさまは来られたのだろうかとふっと思った。もし罪からの救いだけであればイエス様でなくても御使いでも十分ではと全く根拠なき言葉だが思っている。良く分からないがもっと人格的な結びつきではないだろうかと思っている。人がどういう常態かというよりもどういう関係かの問題を放蕩息子の譬から教えているのではないだろうか。単純化することは分かりやすいしサルもそのような所で生まれ育ったから良く分かる。もしそうでなかったら聖書に更にふれるということもなかっただろう。しかし、そうするとあるものがスポイルされる嫌いがある。今、そのことで悩んでいる。聖書の言葉を伝えるということにおいても聞く者がそれで納得するか否かは別にしても「罪だ審きだ地獄だ」と言えば分かりやすい。そして「天国」があると。それとすべてのものを創造された神を物を製造されたような捉え方をする。しかしそこには愛情を込めても人格的な結びつきはない。人との人格的なふれあいの少ないサルにとってはチョッと耐え難い。神を全人格的に語るというのはサルにとっては難しい。「福音の再発見」、まだツンドク状態だが答えを得ることが出来たら幸いである。

2013年7月13日土曜日

信州も暑い

このところ全国的に記録更新をしている。標高800メートルのこの地も暑い。車を運転していて日差しの強さに太陽が近づいているのではないかと思った。なんか昔の人が天動説を信じていたことが分かるような気がする。天が動いて太陽が遠くに行けばいいのだと。今年の冬も寒かったがいつも寒暖のときに思う。この暑さを冬に、冬の寒さを夏に、そうしたら暑さも寒さも和らげる事が出来るのになぁと馬鹿なことを考えている。

2013年7月8日月曜日

聖書的

長谷川町子さんの「いじわるばあさん」の四コママンガに「世界情勢を勉強しなければ」と新聞を読み、その結論は(名前は前後するが)「チャーチルもスターリンもトルーマンもドゴールも先は長くないな」(正しい言葉は忘れたがこんな言葉だった)。家族がぎゃふんとなるのだが我が論評も然りである。前もって断わっておく。

難しいので斜め読みも多い「一キリ」さんのブログを読んでいるとアメリカの福音派について語りながらある教派を念頭においてしっかり語っているような気がする。そこで生まれ育った者にとっては彼らの問いかけが良く分かる。というより自分も問いかけてきた事であり、これも現在進行形でもある。染み付いた物はたとえ間違っていると思ってもそう簡単に軌道修正はできない。チョッと大袈裟だがある意味でユダヤ人キリスト者の苦悩が分かる。

日本人キリスト者の現実を見せられるような文に出会った。上沼先生のブログにこのように書かれてあった。東京の東久留米にある宣教師の子供さんたちの学校であるクリスチャンアカデミーで勉強されている人たちがアメリカに散在していて、三年に一度、場所を変えて同窓会をしているそうだ。奥様もその一人とか、その中の一人の方が日本に行ったときの驚きを語っていた事が書かれていた。

「・・・異文化を経験して豊かになっている成人としての誇りを持っています。 その感覚は自然にこちらにも伝わってきます。異文化を経験し、そのなかで何かを考えていて、それゆえに理解されないことがあっても、それはまさに与えられた豊かさなのです。

そんなことを経験している人がしばらくぶりに日本に戻って驚かされたことは、日本の教会とクリスチャンが、自分の親たちが教えた生き方をそのまま踏襲していて、その虜になっていて、御霊の自
由と豊かさを欠いていることだと、立ち話で話してくれました。何とも納得させられることです。初代の宣教師がその文化と聖書理解を持って取り入れたことが日本でそのまま聖書的なものとして生き残っているのです。そのような親の世代の遺産に驚かされることがあっても、その違いも認めることができ、しかもそれも自分たちの一部として生きているのです。」

柔軟性の欠落は、サルの中にもあり、それで困っている事は多々である。硬直した発想、それがわかってもどうすることもできない自分の姿。生まれ育った地域の風土がそれを生み出したのか和辻哲郎の「鎖国」を読んで、辿っていくとそこにまで行くのかなと思わされているが少し大袈裟かな。


2013年7月7日日曜日

止揚学園

先日、止揚学園から「創立50周年記念の集い」の案内が来た。昔、少額でも寄付をするとこのような案内をよこしてくれる。どこかの教団?のように、移転してコレコレのお金が必要ですと寄付の要請が来て寄付をすれば次回も必ず来る。しかし、それがないと次はなしである。これはこれではっきりしていていい。
この学園を知ったのは、信仰を持とうかとしていた頃に「百万人の福音」誌に特集として載っていた。古いお寺だったかを改造して始められた学園の初めの頃である。
障害児の父として尊敬されている糸賀一雄の「この子らに光を」の思想に反発して「この子らと共に」だったと思ったがそれがここの学園の根底にある。
「救らいの父」と言われた光田健輔さんも患者の隔離政策の批判によって批判されていると聞く、当事としては画期的なことであろうと思う。糸賀さんもそうであろう。疎外されて、座敷牢に入れられていたような子らに光を当てただけですごいと思う。
それでも福井さんは差別を感じた。言われてみれば然りである。困っている人に何かして上げる思想は「善意の悪」である。これがサルの中にもあるから困ってしまう。どこか自分が高い所にいる。
二十代の何時ごろか忘れたが訪ねた事があった。平屋の小さな建物だった。子供たちもそれ程多くはなく、知らない人におびえるようにしている子もいれば、サルの傍に来て親しそうに話し続ける子もいて、特別に障害がどうのこうという印象はなかった。その時に案内してくださったのは面条さんである。
福井さんとは本を通して知ることになった。何時だったか近くの保育園に福井さんの講演があるとのポスターを見て聞きに行った。子供の座る小さなイスに座って、男性はサルを含めて数人もいなかったのではないだろうか。子育て真っ最中のお母さん方の生き生きとした顔に囲まれての講演会であった。内容は忘れたが終わって挨拶に行こうとしたらわぁーとお母さん達が福井さんを囲み、頭の薄くなったおっさんが(失礼)こんなに人気があるなんてと思ったのが実感である。関西だけでなく東京でも有名な存在である事を知った。待っているのも照れくさいので失礼したがそんな思い出がある。
福井さんは彼らに対しての真剣さは半端ではない。いい加減が着物着て歩いているようなサルにとってチョッと煙たい存在、会えたいが怖いが本音である。でも大きくなった学園、そこで生活している人たちの姿を見たい気持ちがある。多分自分のいい加減さが少し矯正されるだろうと思っている。勿論そのためではない。学園の真摯さをこの目で確かめられたらとの思いである。

和田ぁー

スポーツニュースはWBSを観た後で見るので、WBSも途中だったり、下手すると見ないことが多くなった。その前に眠くなって布団に入ってしまうからである。
先日、和田監督の女性問題がヤフーに載っていた。まずいなと思ったら案の定、1昨日かなヤフーに「巨人連勝、4.5差」とあった。それでも昨日は阪神が勝って巨人が負けたから3.5差になったが腹が立つ。
「・・・は芸の肥やし」と言われたのは昔の話、それに芸人じゃない。スポーツに携わって女性問題で駄目になった人間はいくらでもいた。どこかの監督のようにウン億で解決してくれるような球団ではないことは分かっているだろう。
以前にも誰か忘れたが女性門題だったかギャンブルだったか忘れたが開幕中に明らかになり、それからずるずると負けていった事があった。野球はメンタルなスポーツなのである。
これで差が広がったらどうするの、そうなったらもう来期は無し。それでなくても来期は無し。
阪神が勝つか巨人が負ける試合しか興味がないので、眠いのと合わせて更に見なくなる。それはそれでいいのだがそれでも腹が立つ。

2013年7月3日水曜日

「鎖国」を読んで

和辻哲郎の「鎖国」をようやく読み終えた。文庫本で活字が小さく、それに昔の漢字を使っていたりで読みづらかった。時にはページを斜め読みしながらの牛歩のペースである。

日本の鎖国について色々書いているのかなと思ったら最後の最後にチョコット。日本史は勿論のこと世界史も大雑把な事しか分からないので細かく書かれても分からないのだがマルコ・ポーロ直後あたりから書かれている。ある面でキリスト教の宣教史的なものがあるように思う。ヨーロッパ特にスペイン、ポルトガルが中心になって、アフリカの西海岸から東海岸へ、そしてインド、アジヤと貿易を拡大していく中でのキリスト教の布教から語られている。丁寧に書かれいるから読むのが大変なのだが書くための資料は膨大なものであろうと思うと脱帽である。山田長政の名前は知っているが彼だけでなく多くの日本人がアジヤに進出して活躍していたようだ。倭寇というのは(13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部を中心に東アジア地域で活動していた海賊の総称。略奪行為だけでなく、密貿易も行っていた)海賊とか初めて知った。

それとアメリカ大陸発見がその後であることが面白い。東海岸から西海岸へそこから太平洋の各諸島を経てマニラへ、当時の人たちの冒険心って強いなぁと思う反面、山師的な人間も多かったのだろうなと思う。それだけヨーロッパは閉塞していたのだろうか。インドのゴア、そして中国のマカオは既に貿易とキリスト教の拠点となっていた。そしてマニラである。

鎖国というと信長あたりかなと思ったら、信長はキリスト教には興味を示さなかったがヨーロッパについての興味は旺盛であったらしい。「「未知の世界に対する強い好奇心、視圏拡大の強い要求を持っていた。と著者は書いている。布教を、教会を建てることを許し、武士を始め多くの信者が生まれた。何時かぶつかったかもしれないが彼の死は、キリスト教の衰退を意味したようだ。秀吉から宣教史追放が始まり、徳川に入ってもまだ家康の時はそれ程でもなかったようだが家光からそれが徹底されたようだ。

ポルトガルが地道に日本の文化を踏まえて宣教して行く中で後発のようなスペインの強引な宣教が反感を買い、それに新教のオランダが加わって、日本人にキリスト教の混乱を招いたのも一つあるかもしれない。著者が書いているように秀吉や家康らの「視界の狭小にもとづくものであろう」書いている。それと「為政者の精神的怯懦」という言葉も使っている。まさに為政者の心の狭さを思う。

日本の敗戦を「科学的精神の欠如」挙げている。日本軍の言動を観ていると頷ける。さかのぼれば秀吉や家康にたどり着くのであろう。信長のような人物は日本には馴染めなかったのだろうか。自分の姿を見てもその精神構造はこの延長線上にある。キリスト者としてもマイナスであろうことは良く分かる。しかし、この殻を破るのは至難の業、否、出来ないかも知れない。日本のキリスト教史を知りえただけでも良かった。信長のイメージも変わった。というより知らなかった。秀吉や家康は予想の範囲だが。

2013年6月29日土曜日

お腹の願いが

梅雨に入ってからは天候不順で自転車で出かけることが少なくなった。という事は家にこもり運動不足に陥っている。家にいればブラインドタッチの練習を兼ねて概観を打っているのでそれはそれでいいのだが・・・。

医者から中性脂肪が多いのは運動不足と言われているので唯一の運動なので困っている。梅雨が明ければと思いながら暑くなったらなったで色々と出不精の理由が挙がってくるだろう。空腹時でも既に満腹時のお腹をしているのでこれを何とかしたい。ただそれだけなのであるがこれが年と共に運動不足になりがちでそう簡単には行かない。それでも昨日は夕方前時間が取れたので山の方にある神社まで行って来た。往復5キロくらいなもの、上りは緩やかなのぼり坂だが下りはペタルを踏まなくてもよいからどれだけエネルギーを使ったか・・・。

夕方4時からの地方局(今もって覚えられず、6CH、12CHとか東京の局で呼んでいる)の水戸黄門の再放送を見ながらコーヒーとお菓子を食べていたが今は煎餅を半分にしたり、大福1個だけにしている。食べる量が少し減るだけだからあまり意味がないかなと思って枝豆にしている。それも少しだけ、しかしこれもあまり意味がないかもしれない。食べるのをやめてコーヒーだけにするか、食べてもいいけどもう少し汗をかくか、願いはお腹をスリムにしたい。

2013年6月28日金曜日

祈るということ

今、家内の身内の事で弁護士に入ってもらって解決をお願いしている。九分九厘まで進んでいるが後一厘でも終わってはいない。もう少し時間がかかるようだ。しかし、目途が立ったといえるかもしれない。それ故感謝している。振り返ってみるとそこに何らかの道筋が見えてくる。道筋が見えると結果がどうなるかは別にしてもある種の安心感を与えてくれる。

今回は直接利害はないがそれでも道筋が見えるまでは気持ちの上で右往左往してしまった。というよりフリーズしてしまうのである。誰でもそうであるかもしれないが先の見えないことって不安に駆られるものである。祈りながらこちらの願いとみころころを探り求め、最悪のことを受け入れられるかと自問している姿を見せられる。そして信仰とは何であろうかと問いかけている。信仰については、ヘブルと書11章に信仰の勇者?が列記されている。しかしそこに至るまでは心の葛藤があったのではないだろうか。機械の選別機のように右に左にと選り分けていけるものではないであろう。結果として選んだとしか思えない。勿論それが神のお心だと信じての話である。ヨセフは、父ヤコブが自分の息子を祝福するのに弟を祝福したことを不満に思っていた。言われて「あぁそうですか」と答えなかったと思う。最終的には受け入れたであろうし、結果的にもそのようになった。

祈りは信仰の有り様をあからさまにしてくれる。そういう意味で我が内に信仰ありやと思ってしまう。「からし種ほどの信仰」はないが「彼は、いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すことない」と言われて、今も生かされている。くすぶる燈心でも闇夜では結構な灯りになる。そのような形で世の光、地の塩として生かされていければ幸いである。

2013年6月18日火曜日

器用貧乏

器用貧乏という言葉がある。概して器用な人に貧乏人が多いということなのか。サルはどちらかというとデスクワークより現場で物を作ったり、体を動かしている方が好きである。と書けば格好いいが要は頭が悪いということだ。昔TV修理をしている時、壊れたTVがあれば御の字であった。故障箇所を突き止めていくのは、推理小説の推理を働かせていくようなもので、故障が直るまでのあのプロセスが実に何とも言えない至福の時であった。しかし、後半はメーカーの修理が多くなって、真空管を替えるだけで直るようなものが多くなって少しつまらなくなった。

日曜日は午前中で終えるので、午後お天気が良かったので自転車で諏訪湖一周にチャレンジしようと出かけたが湖畔に出る直前に後の車輪がゴトゴトお尻に響くので止めてみたらパンクしている。戻るしかないのでユーターンをし、自転車に乗ったり、引いたりして戻る。あんまり乗るとリムが傷むかなと思い、引いて歩くことにした。途中交番で空気入れを借りようとしたら無いと言う。そのまま歩き出したら後から大きな声で呼ぶ、その声に振り向いたら空気入れを持って早足で来るおまわりさん。常駐の交番ではないから空気入れのあるなしは分からない人もいるのだろうと思った。たかが空気入れないといっても文句を言うほどのものではない。これから出かけるから適当なところに置いていってと出かけて行った。感じのいい信州の若いおまわりさん。

空気を入れてパンバンになったタイヤ、大丈夫かと思って走り出したら間もなくぺしゃんこに、仕方がないので引いて家まで行く、後半はさすがに汗びっしょり、シャワーを浴びてすっきりする。運動の意味を兼ねて乗るので歩いても汗をかければ、これも御の字。翌日、チューブを買ってきて、交換しようと思って外したリムにあわせたら余ってしまった。間違ったのかなと古いのと合わせると同じ、タイヤに入れれば丁度いい、それではとリムに取り付けていく、空気を入れて大丈夫そう。本体に取り付けて完了、バランスを取り、夕方10キロ位快調に走る。最近膝の痛みも少ないのは、膝の筋肉が少し丈夫になったのだろうか、ならいいのだが。

そんな事でこちらに来て初めてのパンクの修理をやってしまった。もう面倒くさいのでこんな事止めようかなと思ったがついチャレンジしてしまった。久し振りなので腰が痛くなったり、動作がゆっくり動くしか出来なかったりで年を感じさせられた。自転車のパンクを直して考えた。器用貧乏なのではなく、貧乏だから何でも自分でやらないといけないから必然的に器用貧乏と言われるのかなと思っている。

2013年6月17日月曜日

笹だんご

最近、同級会などで田舎に帰ると同じ集落の同級生のHクンの家に寄る。以前は母の実家に寄ることはあっても田んぼ一つ先のHクンの家には寄ることはなかった。今は逆になって母の実家には寄らなくなった。何時だったか兄がもう寄らなくてもいいよと言われたので寄ってないだけである。彼の所に寄るきっかけは、3-4年前に湯沢で同級会があった時に夫婦で出席していた。彼は同じ集落の同級生のHサン(同じHになったが)と結婚している。次の時には彼女しか出席していなかった。用でもあったのだろうと思っていたら宴会の時にHサンが私の席に来て「実は主人が心臓が悪く、心臓専門の開業医だけど何もしてくれない。今は寝たり起きたりの状態」とそんなようなことを言われた。じゃぁ帰り実家に寄るからあなたの家にも寄るよと言って訪ねたのがきっかけである。帰っったら調べてみると約束して帰ってきた。そしてネットで調べて資料を送った。「多分先生は何もしないのではなくて、弱っていてもまだ自分の体のものが一番いいのではないか、だから手術は最後の最後だと思う」そのようなことも書いたら少し安心したようだった。結局昨年かに手術をされて、元気になったらつい色々やって無理をしてしまった。今は少し調子はよくないと言っていた。でも無理をしなければ大丈夫とのこと少し安心する。農家だからいくらでも仕事があるから働き者の彼には辛いところである。無理しないようにとの思いは心しているようだ。

家も田舎もか嫌って上京したので、田舎には帰ることはなかった。帰るようになったのはキリスト者となって、今までの親不孝もあり、顔を見せるだけでも親孝行かと思って帰るようにしていた。田舎に帰っても母の実家と本家に挨拶に行く位で他に行くことはなかった。何時だったか母が「H(弟)はかばんを置いたら何処かに出かけて帰ってきたと思ったらもう東京に帰る時というのが多いがお前は何処も出かけない」そのような事を言われた事があった。明確なものではないが拘りがあり、厭いてという思いもあってのことである。Hクンの病気のお陰で彼らと会って話をしていくうちに拘るものが薄らぐというか消えて行ったように思う。同じ集落に男子の同級生が四人(女性は五人)、そのうち男性は二人亡くなっている(女性は一人)。何時だったか「残っているのは二人だけだから無理をしないで長生きしようよ」といって彼も頷いてくれた。そんなこんなで彼らに感謝していた。

Hクンはそんなことで参加できなかったがHサンは参加されていて、旅館について受付を終えたら彼女が来て、お土産のお礼を言われて「これ」と言って袋を渡された。有難うと言って、そのまま荷物と一緒に車に入れて中身を見ていたなかった。帰って来て袋を開けたら「笹だんご」である。夜中なのに一個を食べる。餡が甘くて、蓬のだんごも歯ごたえがいい。おいしいので思わずもう1個食べてしまった。地方局の水戸黄門の再放送の時にコーヒータイムにしている。その時に1個、朝食にはパンの代わりに1個食べて昨日で終わった。どうも手作りのよう。季節的には田植えが終わった後で作っていたと思うが今がそのような季節になるのかな。田舎にいた時は、母の手伝いで笹にくるむをやっていたから、甘さと美味しさと懐かしさで感激である。大分前には、郵便局での笹だんごのカタログを見て、生唾を飲んでいたが今回は本物の手作りの笹だんご、最高。Hクン、Hサン有難うございました。田舎に行った甲斐がありました。

2013年6月13日木曜日

700キロの旅

田舎で小学校の同窓会があったので出かけてきた。学年が一クラスしかない小さな小学校で、もうその学校はない。卒業時総勢44名、女性が4名多い。60年たって物故者は13名、約30%弱、介護を受けている人も居るそうだ。これから毎年一人、二人と増えてくるのだろう。しかし、集まった人たちは元気がいい、特に女性陣は、これは何処でもの現象だがここでもである。今回、地元の女性
陣にせっつかれて男性陣が動かざる得なかったようなことを言っていた。悪い事ではない。人数も11:5で数で圧倒、これも何処でも同じ現象。

何時もは会が終わったら帰りに実家に寄るのだが今回は阿賀野川の遊覧があるとのことで戻るようになるから午前中に行く事にした。0-4時の半額を利用するために4時前に出発する。まだ真っ暗、上りの車は少しあるが下りの車は殆どない。一インターに一台越されるくらい。豊科あたりで少し明るさが出て、長野あたりで朝の感じ、そのまま走り、一車線になるあたりから眠くなってきたので新井PAで休憩、持参の毛布を被って後のシートで眠る。2時間近く眠っただろうか顔を洗って出発する。二車線の時はゆっくり80キロあたりで走っていたが一車線になると後から追いまくられるのでそうもいかず90から100キロで走る。所々二車線になるのでそこで追い越してもらって助かる。北陸道に入り少し車の数が増えてくる。柏崎、長岡と、そして新潟に近づくとさらにである。車の数は信州に比べるとダントツに多いみたいだがどうなのだろう。新潟で新新バイパスなる車専用道を走る。ノンストップで終点へ、平行に走っている高速道はがらがらである。しかし、災害時の輸送路としての自動車専用道路は整備されないとと思う。

実家の近所の同級生の家に顔を出し、庭先で立ち話をして、お茶を勧められたがそこで失礼する。実家に寄ると留守、こんな時にと持ってきた文庫本を読む、ちっとも進まないのでこんな時があると助かる。義姉さんの実家のお兄さんが亡くなられて、三十何日目かでお坊さんが来てお経を上げていたようだ。町に出かけて昼食に回転すし食べ、実家に戻り、お米を貰って会場へ。去年、逆に走ったので思い出しながら走る。ゴチャゴチャ走ったので大丈夫かなと思ったが迷わず会場の旅館へ着くことが出来た。それに定刻五分前に、覚える事が衰えてきているので、少し自信を持つ。挨拶をしながら「私わかる」と二人に言われたが分からず。少し経って思い出してきた。宴会後に女性陣が男性陣の部屋に来て賑やかに時を過ごす。おじいさんやおばあさんたちであるから、もうギラギラしたものがないからいい。

色々準備や手配をしてくださったMさんは酒屋の娘、お父さんを亡くされて、お母さんと店を切り盛りされていたようだ。如才なく、気配りの出来る方で、県外から来た人たちに自家製の味噌とその中に漬物を入れてくださった。私なんか都合でこれなくなったHクンの分を上げるとと二つ貰ってしまった。それプラスおミヤゲに地元のかりんとう饅頭も頂く、頂くといえば近所の同級生も何か下さった。帰って開けたら笹だんご、去年も今年も買えなかったから嬉しかった。さっそく食べたが餡が甘くて美味しかった。自家製のようだ。年と共に小さい時の食べ物が懐かしく、おいしいとかおいしくないとかの次元でなく、懐かしさで食べられる。笹だんご最高。彼らは同じ集落で同級生、彼は心臓の弁の手術をしている。彼女は彼の体を心配しているのが端々にうかがえる。夫婦愛っていいものだ。

翌日は車で2-30分の阿賀野川の遊覧へ、私だけがそのまま失礼するのでバスの後について行く、遊覧は大したことはなかった。そこで個々で食事と買い物をして彼らはバスで旅館へ、私は安田インターから新潟へ、車の数の多さに驚くが海岸端に向かって走るが防風林の林がそれを遮る。しばらく走ってようやく海が見えるようになる。太平洋岸と違って変化に富んでいるからいくら走っても飽きない。そして柏崎へと向かう。途中寺泊に市場があり、チョッと寄って少し買い物をして、また走り出す。海岸を迂回するように道が内陸に向かっていたので目的地が近いことを知る。しばらくすると建物が見えた。それ程大きい建物ではない。駐車場も車が数台しか停まっていない。当たり前といえば当たり前なのだが内容は期待したようなものではなかった。企業のPR館であるから期待する方がおかしかった。5階はキッズルームになって、若いお母さんたちが3人ばかり子供を遊ばせていた。危険の危の字も感じない。がっかりよりも憤りを感じてしまった。福島の反省なんか何にもない。勿論危険なこととか否定的なことはできないことは分かっているが。

急ぐ必要もないのでそのまま走っていたら上越市にまで来てしまった。それではと上越高田から高速へ入ろうとして8号線から左折をする所を一本先にしてしまったので道に迷ってしまった。途中から戻ろうとしているうちに国道とバイパスのような道とをごっちゃにしてしまって迷う。ナビのあるのを忘れ、人に聞いて走るが大分走り大乗腑かなと思いつつ走ると突き当たり、高速の案内があってすぐインターである事がわかってほっとする。広い道を国道と間違いてしまったことに気付く、たまにこういうことがおきる。急いだり、あわてるとこうなるが時間たっぷりなのにと思う。少し間をおいてやればどうって事ないのにア~勘違いである。
高速に入って間もなくガス欠のアラーム、車が少ないのかSAなのにスタンドはなし、小布施PAで下りて探すがなし,戻るように走って信州中野近くまで来て、ナビにガソリンスタンド案内もあるのを思い出してナビッたらすぐ近くにあった。スタンドの目の前がIC、何もない田舎で夜となると本当に何もない。高速の脇を走るはめになった所為もあるのだろうが。なんだかんだで700キロからの旅になった。

去年、近所の同級生と話をしていて、一つの拘りが消えた。今回も何と言われると言葉に窮するが何かが消えたようだ。田舎に対するものなのだろう。都会を去り、今は裸の自分を直視できつつある。回心した取税人のような者かもしれない。自分がどう見られ、どう見せようかという思いはなくなりつつある。それよりも主を知ること、主に知られていること、この方がはるかに大きい。勿論まだまだであはなるが。老いて来ると今まで出来たものが出来なくなるという現実に出会う。今回もそんなチャレンジであった。車で走ることも旅行するのも皆ここまで出来る、または出来たの確認である。少し自信の付いた旅であった。

2013年6月6日木曜日

御野立公園で

先日、シニアの集まりで塩尻との境にある御野立公園にバードウオッチングに行ってきた。ここには五月と六月の日曜日の早朝にバードウオッチングのための小鳥バスが出ている。しかし朝であったが九時を過ぎていたので鳥のさえずりもわずかで小鳥の姿も見受けられなかった。鳥たちは日が昇るまではうるさいくらいさえずるが日が昇るとピタッとさえずりが止んでしまう。どういう理由だろういつも不思議に思う。

鳥が鳴くのはオスだけとか概して動物のオスは外見が派手である。メスの注意を引こうとするからかな人間は男はダークスーツが似合い、女性は派手な化粧と洋服が良く似合うのに。説明してくださった方は野鳥の会の会長さんで色々鳥に関して詳しい人だった。鳴いている鳥はなんていう鳥か鳴き声で分かり、それがどのようなのかも話をしてくれた。鳴き声には三つの種類があって、自分のテリトリーを示す声とオスがメスに対してのラブコール、そして威嚇があるそうだ。鳴いている声は同じ様に聞こえるが色々あるものだと感心する。

ここは峠の一角にあるから平地が少ない。その少ない平地に案内してくれて、そこには「フデリンドウ」が咲いていた(説明で知ったのだが)。丈10cm位で小さな花である。先月に見にに行った芝桜のような、去年見た赤蕎麦畑のような壮観さは無い。これは一年草で種は粉の様に小さいといっていた。この名前の由来は花が閉じたとき筆のような形に見えるので「フデリンドウ」と言うそうで、この花の不思議なのは、日が刺しているときだけ花が開いて、曇りや雨の時は閉じている。行った時は晴れていたので花は開いていたが不思議な花だ。小さな種の所為なのかな? 虫が中に入って閉じられると中で動き回っているうちに花粉が付くのでそれで受粉の助けをする。踏まないでと注意されるほど小さな植物だから増やすのは大変みたい。バードウオッチングなのに鳥もさえずりも少なかったけれど手入れしてきたこの花を見せるだけでも良かったのかもしれない。

花を見、説明を聞ききながらふっと次の聖書のことばが浮かんだ。「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。matt 6:30そして「信仰の薄い人たち」と続くだが、正直底辺で生きているともう少しいやもっととの思いも無いではない。しかし、不思議な花である。

その後、建物の中で「大鷲グル」の話などをしてくださった。オオタカがが感電死したのを剥製にしたり、鷹や鷲の大きい鳥が感電死しないように中電に対策を検討するように依頼したりした事を聞いて、そして中電をも動かしている姿を見て鳥に対する愛情はすごいなぁと感心する。フデリンドウを丁寧に手入れしているのを見ると自然に対する愛着もひとしおであろうと思わされた。愛の無い者の呟き。

2013年5月27日月曜日

東京の下町を歩く

先日、以前通っていた教会の二人の姉妹が前後して退院されたと聞いて訪ねて来た。お見舞いという言葉はあまり好きではない。なんか健康な人間が病人を哀れむような目線があるような気がしてしまうのである。人生は自分との戦い、病気との闘いもあれば、精神的な弱さで押し潰されそうになってしまう人は自分との闘いがある。そこにサルも金魚の糞のようにくっついている。

一年ぶりの東京である。何かないと東京には行けない。春に東京に行く機会があったが大雪で行くことができなかった。残念だったがこれも御心かと思った。
最初、世田谷へと兄弟が食事を作るようなので、それなら一食作らなくてもいいように昼食を諏訪インター前のおぎのやで釜めしを買って行くことにした。家内の提案だったが時々サルが気がつかないことに気がついてくれるからありがたい。それと最近は正月の高崎での新年学び会にはパスしているから自分も食べたいという気もあってのことである。最近、こんな感じで便乗する。この間も書いたかな?富士見町へ行った時に目的の一つであるケーキ屋さんで家内がケーキを物色している時、壁際のパンを見ていたらその脇にフランスパンが置いてあったのでおもわず手にとってレジのカウンターのトレーに乗せてしまった。パンなどを買いに行った時はフランスパンはノーなのである。フランスパンは何もつけなくても食べてしまう。スプレッド?チーズをつけると最高であるが。

調布付近で工事があって大渋滞のようなので国立府中で下りる。ぼけっとしていた所為か下り方向を府中方面ではなく八王子方面に下りてしまった。久し振りなので地形が変わったなぁと思って走っていたがどうも間違ったようで折り返して少し走ったら思い出す。後は川崎街道に入って稲城から川伝いに走り、登戸から世田谷通りに出て後は一本道、環八を超えて左折するが右に入る道を見失って農大の道に出てチョッと回り道して着く、姉妹が思ったより元気なのでホッとする。それに落ち着いている姿を見てこちらが励まされる。一緒に昼食をとり、ひと時団欒の時となった。話が弾んですぐ失礼するのが3時間あまり、時間が気になって腕時計にチラチラ目が行ってしまった。様子を見てすぐ失礼しようと思っていたがそんな具合であった。長くなって姉妹は大丈夫かなと心配しながら失礼したが家内に言わせればすぐに帰れるわけがないと言われてしまった。そこからいつも来てくださっているMファミリーの家が近いので顔出し、玄関先で挨拶して失礼する。

そして次ぎのH兄弟姉のところへと向かう。世田谷通りを戻るように走り、百合丘の駅の手前を左折して、昔よく通った道を懐かしさを覚えながら走る。時間も少し過ぎたくらいでホッとする。ご主人のH兄が迎えてくれたがお元気、姉妹も思ったよりお元気なのでホッとする。ただ話すことができないので、色々試みてみたが言わんとすることが分からず残念だった。最初、手を取ったら強い力で握られたのに驚く、それに手を口に持っていかれた時の腕の力の強さにも驚く、最初、親愛の情を示されたのかと思ってそのつもりで話したら、唇と指で何かを伝えようとしていることに気が付くが分からずサルの浅はかなる思いを恥じ入る。暗くなってきたので失礼したが意思が理解できなかったことが悔やまれる。相変わらずご主人の兄弟は色々気を使ってくださって恐縮する。駅まで出るほどの元気がないようなことを聞いていたので安心して行ったのに何かともてなしてくださった。感謝する。

翌日は、以前にも行ったのだが今回は締めくくりの意味を込めて、キリスト者になる前に住んでいた街を歩いてみた。就職で上京して最初に住んだのは大崎、京王線で明大前から渋谷に向かい、JRの渋谷駅から五反田駅で池上線に乗り換えて戸越銀座で降りて、商店街を端から端いと歩く。その反対方向に一キロくらい歩くと目蒲線の武蔵小山駅がある。あそこに場末というか三番館というか映画館があった。先輩に連れてもらって観た映画がジェムス・ディーンの「エデンの東」だった。あれ以来映画大好き人間になってしまった。ここの銀座は日本一長い銀座だそうだ。商店街が切れて少し歩くとその先に新幹線が走っている。そこのガードをくぐった所に会社があり、寮があった。あの当時は品鶴線といって貨物線の線路だった。今はそれプラス横須賀線だろうか?そのうえに新幹線が走っている。そこから十分くらい歩くと大崎駅がある。知っている頃は駅前は明電舎の工場、その後ソニーの工場になって、今はインテリジェントビルになっている。様変わりしたものである。それから亀戸へ、駅前の下宿屋に下宿していたがそこもなし、駅は様変わりして、裏通りを通ったら八百屋があってトマトとアスパラが安いので思わず買ってしまった。そこで亀戸のはずれに東武の駅があるのを思い出してそこで訪ねたら教えてくれたがスカイツリーに行くと言ったら駅前のバスターミナルからバスが出ていると言われてそちらに行く。バスで十分位だから亀戸から近い。昔は業平(なりひら)といって何もない所だった。多分、ソフトバンクの王さんが生まれ育った所ではないかなと思う。昔、同じ職場の人で王さんと卓球をやったと自慢そうに話していたことを思い出す。王さんが高校生の時の話である。

スカイツリーは時間がないので外から眺めるだけ、下から眺めると大小のパイプの寄せ集めの感がする。遠くで見るほうが風情がある。ソラマチ?を散策して、浅草に出て、時間がないからそのまま地下鉄で上野に、上野公園を横切り、芸大前、寛永寺の前を通って鶯谷駅へ、短い間であったが寛永寺の近くに部屋を借りていた。声楽の音大生の歌っている声が良く聞こえていた。今はないが公園の中にある野球場があって休日は野球をやっていたので良く野球見物をしていた。そこから王子の一つ手前の上中里で降りて、造幣局の滝野川工場の前を通り、中山道の一里塚の近くに住んでいたがそこも場所も面影も見出せなかった。そこから上野に戻り、今の台東区役所の近くに職場があったのでそこも見てみたが分からなかった。ただ隣が風呂屋さんだったのでそこの息子さんとよく風呂に入った思い出がある。風呂屋の息子でありながら風呂が嫌いでおかみさんが一緒に入ってくれと頼まれて良く背中を流してあげたものだ。その後はマンションになっているのかな、その隣の建物にに懐かしいお風呂屋さん苗字の表札がかかっていた。中山道沿いにオートバイ屋さんがたくさんあったが今は数軒しかなかった。上野の駅前、アメ横、御徒町のガード下を歩き、秋葉原を歩いて、食事をした後、夜の集会に出る。キリスト者になる前に住んでいる所を歩き、上中里からキリスト者になって世田谷に引っ越した。これで一つの区切りとすることが出来た。色々な意味でジ・エンドである。

シニアキャンプ

軽井沢で春と秋にシニア向けのキャンプがある。最初の頃は春と秋に参加していたが今は春だけ参加している。参加していると書くと格好いいが要は半分お楽しみで参加しているのである。午前と夜に聖書の話しがあり、午後はオプションで近隣へ見学などに出かける。今回のメッセンジャーは関西のA兄で一度聞いてみたいと思っていたので聞くことが出来で感謝である。ワンポイントのように宇宙の事、人体の事などを話せれて、初めての所為か新鮮に感じた。

オプションはNHKの「八重の桜」で有名になった八重の夫である新島襄ゆかりの地安中へ大河ドラマのお陰で町おこしは大河ドラマの一つの側面でありとてもいいことだと思う。大河ドラマは見ないが主役は美人、本人は夫も言うように美人とは程遠いようで、まさにミスキャストだと言っている。写真を見ると女優の渡辺えりさんがぴったりの感じがするがどうだろう。えりさんに怒られるかな。明治の人間はすごい。しかし、活躍した多くの人たちは下級武士の出身、今和辻哲郎の「鎖国」を読んでいるが鎖国にヒントがあるのかな。

二日目は同じ安中にある安中教会、興味は新島襄よりその教え子であり、牧師である柏木義円に興味はあったがそれについてはあまり触れなかった。説明してくださった牧師は京都出身で関西訛りでとことわって話されたがよどみなくユーモアを交えて面白く話されて、集会もこんな感じで話されたら面白いなぁと思った。質問はといいながらそれ程丁寧には答えてくださらなかった。質問者も集会ではおかしくないかもしれないがあそこでする質問ではないように思ったが皆はどう思っただろう。如才がない牧師である。それに日本基督教団はユニオンですと言われ、個々の教会が独立していると言われて、組合系でどちらかというとリベラルのようである。聖霊は否定しているようなことを言っていた。同志社はそうなのかな、そういえば植村正久と海老名弾正の神学論争は有名である(内容は良くわからないが)。このお陰でキリスト教の隆盛?が止まったと聞くが?そんな関係で個人的には否定はしないがあまり好意的には見ていない。

牧師の説明は教会の由来とか建物について語られて信仰的な事は殆ど触れられなかった。あんな感じで見学者に説明しているのか我々がキリスト者だからといって特別何ということはなかったようである。福音的とアンチだから触れたくないのだろうか。神学的知識はないから相手にせずか不毛な議論は避けたのか?

建物の説明をされて日基は歴史があるから教会も然りである。大谷石で寄木のように組み立ててあるそうだが地震では内壁は崩れたが石は殆どずれなかったとか日本の仏閣などの造りを模して免震になっているとか、小さな教会を広く見せるために色々工夫されている。名前は忘れたが当時の有名な建築家設計して優れて材料を使って立てているとのことだった。床やカーペットの下になっているが畳は当時のままとか、湯浅さんという安中の事業家が町や教会のために尽力されたそうだ。昔はそういうことが多かったみたい。

今回は信者の資質について考えさせられた。救いを強調するとそれだけが突出して、後はどうでもいいような風潮があり、謙遜とか謙譲という言葉や行動は死語になりつつあるのかなと思わされた。今、我々が捉えている福音は変わらないといけないような気がしている。サルは知識があるわけではなく感覚的なものであり、穿った見方かもしれない。

2013年5月25日土曜日

笹だんご

先日、郵便物を送るので郵便局に行ったらカタログ販売で「笹だんご」のパンフレットが置いてあった。懐かしくて思わず手にとって懐かしそうに見ていたら職員の方が是非と声をかけてきた。適当に相槌を打って眺めていた。笹とよもぎの鮮やかな緑が美しい。高速のSAなどで売っているのは笹の色がさめて冷凍だから興味は湧かないが写真とはいっても鮮やかな緑の色は食欲を誘う。パンフレットを眺めているだけで口の中が唾が溜まってくる。

パンフレットには上越は二軒、中越は五軒、下越は南部が六軒ですべてが新潟市、下越北部も六軒で南から新潟、阿賀野、新発田、胎内(二軒)、村上とあった。新発田はいつも買っている所ではなかった。扱っている店の多さでも分かるように笹だんごは元々は下越地方が本場らしい。笹だんごは笹に殺菌作用があるらしく日持ちがする。農繁期の忙しい時の保存食のようなものでもある。
笹だんごと共にもち米を笹に包んだ笹巻きも懐かしい。きな粉をまぶして食べると実においしい。
田舎に居たときは良く手伝ったものだ。

年と共に小さい時に食べた物が懐かしく、そして食べたくなる。餅系統も然り、餅はあべかわにしても醤油をつけても何もつけなくてもなんでもオーケーである。勿論大福もいい。多分あんこも好きなのであろう。ケーキ類も食べるが買ってまで食べたいとは思わない。だから今川焼などもあまりおいしそうではないかなと思っても買ってしまう。そしておいしくなくても後悔はしない。

2013年5月24日金曜日

福音書が終わった

以前作った新約聖書概観の福音書梗概は四福音書を2頁にまとめた超梗概だったので、概観に添ったものをともう少し詳しく、一福音書を4-5頁に纏める。丸写し的なところもないではないがそれなりに纏まった。パソコンで打っていると注解書と少し違った視点でみえてくる。
この機会に四福音書対照表を以前より細かくしたのでそれも見ていると福音書によって微妙に違っているから福音記者が意図しようとしていることを考えるのも面白い。

2013年5月8日水曜日

ラオデキアの教会

福音書にこのような言葉がある。
人の子が来て、食べもし、飲みもすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」luke: 7:34
「食いしんぼうの大酒飲み」はイエス様を非難して言われた言葉である。しかし、彼らから見たらそう見えたのだろう。枠に囚われないイエス様は自由に取税人や罪人と言われる人たちの中に入って行かれて食事やお酒を飲みあっていたであろう。昔、読んだある牧師の本の中に「らい病人松田ラザロ君」というのを書いている。一見それと分かる人だった物乞いかと少しお金と思ったらそうではなく日曜の礼拝に教会堂の隅でいいから出席させてほしい。それに一夜の宿をと乞われ、物置を整理して泊めてあげた。当日、階段を上がれない本人と階段を前にして思案していた。抱いて上がる勇気はさすがになかったそうだ。そこに長老二人が来られて、経緯を知って両脇を抱えて階段を上がっていかれた。牧師も手伝おうとしたが長老の二人に「まぁまぁ私たちは先が見えています。発病しても十年はかかるそうだからその時は私たちはもうこの世にはいない。先生はまだお若いから」と、その時は正直ホッとしたと書いていた。戦前の話だから一般の人が「らい」に対する認識とユダヤ人が取税人や罪人と関わる事は似ているのかもしれない。汚れると病気がうつるの違いはあっても。

駄目教会、駄目信者の見本のようなラオデキヤの教会は蔑視こそすれ、共感を覚える教会も信者もいないだろう。しかし、共に食事をするという教会はラオデキヤの教会だけである。共に食事をするとは親愛のしるしである。キリストの座に着けようと言われるのもこの教会だけである。愛されていなければこんな事を言うだろうか。放蕩息子の父ははるか遠くに息子を見え出した時、どんなに喜んだであろうか。息子にとっては遠くに父を見ていたであろうが父は目の前に息子を見ていた。人が神を見る距離と神が我らを見る距離は全然違うのである。それを我らは自分の目線で神を見て、遠い存在としている。神は近くにおられる。時間も距離も一時間は一時間、一キロは一キロである。しかし、感覚的な時間や距離は短かったり、長かったりする。神は我らとの間は短い。罪が我らを神から遠くにいるように意識させている。罪の中にいても身近にいる。悔い改めがそれを確認させてくれる。

2013年5月2日木曜日

我が家のGW

昨日はそばを食べに行けなかったので今日出かけて来た。その前に一番上の義姉がウイルス性の風邪とかで病院を訪ねる。結果的に一週間ばかり入院とかすぐ上の義姉夫婦に任せて、高速で富士見町に向かう。途中諏訪湖SAに寄るが下りはよく寄るけれど上りは殆ど寄ることはなかったので様変わりしているのに驚いた。今年の春に外から従業員や業者用の駐車場に入ったことがあったが停めれないのでそのまま帰ってしまったことがあった。レストランも綺麗になって、スターバックスもあり、売店も綺麗にレイアウトも素敵になっている。外も下りと違って湖がすぐ先に見え、展望台もあり、中々だなぁと思った。それに当然だが停まっている車は殆どが県外ナンバー、諏訪ナンバーは我が家を除けは皆無、長野、松本が数台、あとは関東、中京、関西がチラホラ、これらを見てGWを実感する。少し覗いて諏訪南インターに向かう。ゲートを通過すると700円の案内が出る。えっと思ったが今日は平日、GW中なので半額と勘違いしてしまった。まぁ大した金額ではないのでよかったがこの辺がリタイアした者の現実。

数台しか停めれないのに空きは一台。店の中ではなく脇のところ、構わないからとそこで食べる。細い麺で美味しかった。といっても蕎麦はそう変わるものではない。ここでも諏訪ナンバーは我が家だけで、松本、所沢、横浜と中京と県外ナンバーばかり。家内は隣のケーキ屋さんでケーキを買い、フランスパンも置いてあったのでサルはそれを買う。車の中だとパンくずが出るので、車の外で少しかじり、富士見公園で歌人の歌詞の碑を見ながらパンをかじっていたら大半を食べてしまった。そこから実践農場に向かう。途中に自由農園があるのでそこに寄って、少し買い物をする。駐車場は殆ど埋まっている。それも県外ナンバーが殆ど、原村の別荘地の故か。更に進んで実践農場へ、お客はそれほどでもない。それでも周りを見回すとここも県外ナンバーばかり、ここは標高1千mくらいあるから農作物はもう少し暖かくならないと地元産は無理かなと思った。諏訪に一寸寄り、買って来たケーキとコーヒーで美味しくいただく。これが我が家のGW、明日と明後日で話をまとめる。といっても明日の午後はまた出かけないと。

2013年5月1日水曜日

GW?

GWの真っ最中なのか中休みなのか分からないが毎日が日曜日の我が家はあまり関係ない。それでも今日は天気がいいから富士見の蕎麦屋さんにそばを食べに行こうと思っていたら義妹がひょっこり来て(いつもこの調子だが)お昼ごろまでだべっていったので明日に延期になる。月に一回のペースで礼拝の後で20-30分の話をするがその準備を少しづつやっている。軒のしずくも溜めればそれなりにとの発想でやっている。今回は黙示録の七つの教会からラオデキヤの教会をと準備している。以前に少し触れたがキリストが教会の外に立って戸を叩く様はある意味で異常であるが特別驚くに当たらない。キリスト教会を見回してみれば結構あると思っている。そういう教会人については自分も含めて腐るほどいるから書くつもりはない。むしろ戸を叩き続けておられる主の忍耐と謙遜を語りたい。そんなこんなで雨降っていた昨日はそれでもよかったがお天気がよくても家にこもる日々は閉塞感を感じてしまうGWである。

2013年4月29日月曜日

痛みを知らない

最近の政治の動きを観ていると不安が募る。尖閣も不安だがそれ以上に国が滅びるのではと懸念する。詩篇の四十九章に「彼らは、心の中で、彼らの家は永遠に続き、その住まいは代々にまで及ぶと思い、自分たちの土地に、自分たちの名をつける。しかし人は、その栄華のうちにとどまれない。人は滅びうせる獣に等しい」という言葉がある。今の政治の行き方が何かこの言葉とダブってしまう。痛みを受けている人たちの犠牲の上に「主権回復」かと、戦争の反省もなく、過去の栄光を求めるようなこの催しを「愚かな」とつぶやいてしまった。

「国のために殉じた英霊のため?」自分たちが死に追いやり死んだら英霊か彼らから学ぼうとしないのか。痛みや悲しみ、そして彼らと家族の苦悩を。人があって国がある。昔も今も国があって人があると思っている。国のために殉じたのであればもっと別な記念の仕方があるであろう。何故一宗教法人に過ぎない靖国でやるのか分からない。TVの画面を見て「お前ら馬鹿か」とつぶやいてしまった。

若い時に韓国人で帰化した人の息子さんと話をしたことがある。その時日本は韓国から七つ奪ったものがあると言われた。覚えているのは「国と言葉」しか記憶にないが奪われた者の痛みはいかばかりなものかと心が痛んだ。それまではそんな事を思いもしなかった。底辺に生きる者はそれでもいいかもしれないが為政者はそうであっては困る。痛みを知らない、知ろうとしない国はどんなに栄華を極めてもその先は滅びである。

こんな言葉もある。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」哀歌 3:22。好きな言葉である。忍耐される神と性急に滅びに向かう為政者。

2013年4月26日金曜日

教会

教会はキリストの体であるとコロサイ書に書いてある(1:24)。エペソ書にはキリストは教会のかしらであるとも書いてある(5:23)。黙示録には教会(天的)がキリストの花嫁として語られている(21:9)。

こんなすばらしい教会が何故に現実の教会が歪んでしまったのだろうか。プロテスタント教会もカトリック教会も互いに批判している。良くは知らないが多分あたっているのだろう。しかし、聖書で語っている教会を互いに具現しているのだろうかと問うならばどう答えられるのだろうか。

教会は信者が主をどのように礼拝するかによって大分違うのではないだろうか。この礼拝の形態が教会の形を右に左にと変えていったような気がする。根拠があるわけではないが。

2013年4月23日火曜日

品川駅は品川区にない

若い時に品川区に住んでいて、最寄り駅は大崎駅であった。高台にあり前方を見ると八ッ山が見え、ソニーの前身の東通工の看板が見えた。大崎駅からは品川駅は隣、目黒駅は五反田駅の次、品川駅にはあまり乗り降りしなかったが目黒駅は映画館もあり、調布に引っ越した電気通信大学の跡に五島育英会がラジオ・テレビの専門学校を作ってそこに一年通った。校舎は木造で、これが国立の大学であったのかと驚いたことや五反田、目黒には良く通ったので今も懐かしく感じる。
そんな駅だからなんで目黒区になくて何で目黒駅なのかと不思議に思ったものだ。品川駅も然りである。教会人、必ずしもキリスト者とは限らないとよく言われるがなんか通じるかな。通じないなぁ。

2013年4月18日木曜日

野鳥写真展

暖かくなって自転車で近くを散策したりしているが段々出不精になって来ている。これはイカンと何処かにと思っていたら群馬の知人から南軽井沢の喫茶店で野鳥写真展の案内を頂いた。若い時は勿論、リタイヤした今も元気に飛び回っているようだ。来るなら連絡をとあったが連絡無しで行ったら本人がいて、用がない限り通っているらしい。久し振りなので写真は後にして注文もせずに話し込んでしまった。いつも時間がないので会っても挨拶で終わるようなものだから色々と話を聞く、名前は彼が学生時代から知っていたがその辺も聞いて点が線になった。今度会うときは面になるだろう。中之条集会で責任を取っているS 兄と三人でと言われたがレベルが違うから笑って返事をしなかったが、正直大分会っていないので話す機会を持ちたいなと以前からは持っていた。信仰の面ではお互い心開いて話せる。同じ集会といっても信仰の根底には色々あって、結構話をすると合わせるのに苦労するというか理解して貰えないことがあるから心開いて話せるという人は少ない。

既に教会のご夫婦と姉妹の友人が見えていたようだった。私たち夫婦は昼時だったのでランチを注文し、食べながら喋るというより彼の話を食べながら聞くが正しいかもしれないほど良く喋っていた。途中、教会の方もそして姉妹の友人も帰り、姉妹とも挨拶して、もうすぐ失礼するからと言いながらも話をする。彼らは教会に移ったが根は集会人、同じ集会関係でも信仰の根底が違うと話が進まない。というより説明が面倒なので話す気が起らない。信仰もツーカーだと心理的にも心許して話せるからホッとする。彼らが帰ってからゆっくりと見る。撮影の苦労話を聞いた後なので綺麗な写真とダブり、何か訴えてくる。

喫茶店を出て、一昨年か上田城跡公園の桜を見たが殆ど散っていたので今回寄ることにした。しだれは散っていたが他は満開で人も多かった。桜は心和ませてくれる。ゆっくり歩きながら散策するように歩くのは何ともいえない気持のよさを感じる。そこから帰途につき、和田峠の手前の和田宿ステーションで野菜とトンネル通行券をバラ売りするので来月も通るから買う。しかし、時間もあるので旧道を通る事にした。三国峠ほどではないがカーブの多いこと5-60あったのではないだろうか。舗装がデコボコになっているところもあったがそれでも車も少なく久し振りで気持ちよかった。
旧道の途中から美ヶ原や霧が峰に行く事ができる。二千メートル近いところを走るからすごい。長野は山にor 峠を越えないといけない。面白い県だ。

2013年4月11日木曜日

鉢植え

家内が銀行で貰ってきた鉢植えが今盛んに花を咲かせている。ガーベラとスミレと名前はわからないが白い花が咲いているのと三つである。最初は鉢植えにへばりつくように元気のない姿を見せていた。このようなものかなと思っていたら、このところ気温が上がっている所為か真っ直ぐ上に伸びて勢いを増している。暖かくなるとこうも違うものかと驚いている。確かに布団を干しても温もりが違うしそれに日が伸びた。それに太陽が大分ずれてきているのに気付かされる。冬は前の家のベランダに日が落ちていたのがその家の反対側の屋根の端に落ちるようになった。神に応答するように元気に咲いている花、暖かくなっても元気の出ないサルとしてはうらやましい。我が信仰生活もこの花のように神にレスポンスしたいものである。



2013年4月8日月曜日

恵みということ

若い時はあまり感じなかった事が歳をとるとよく感じるようになるものが色々ある。老化が進んでくると老眼になり、虫歯が増え、耳は遠くなる。40代後半に目がかすむようになったので失明するのではないかと心配しながら眼科に行ったら老眼が始まってきたとの事で安心したことを思い出す。ついでだからとメガを作ったらきつくて使いないくらいだったが今は度が進んでいるのでもう役に立たなくなった。若い時は眼鏡をかけていると賢そうに見えるから眼鏡をかけている人は憧れの的だった。いざ作るようになって眼鏡をかけてみると湯気に近づけば曇るし老眼だから遠くを見る時ははずさないといけないし結構不便なものだ。

耳は中学の時、運動会のスターターをやったら耳栓しないでやったから耳鳴りが残り、10代後半で両方耳鳴りがするようになり、右はミーン、左はシーンと鳴ってステレオタイプの耳鳴りになっている。いつだったか忘れたがある時一瞬耳鳴りが止まったことがあった。その時は何事が起きたのかなと思った。静寂とはこのようなものかと、しかし喧騒の方が落ち着くから慣れは怖い。健康診断で聴力検査をすると驚かれる。今では老人性難聴で片付けられている。

歯も虫歯というか被せる数が増えてきた。それでも家内に言わせれば少ない方だと言う。こちらに来て歯医者の指導で丁寧に磨いているが以前は雑だった。それにすぐ歯石がたまるのも雑の所為のようだ。指導を受けて歯石が溜まらなくなって褒められたくらいだから相当なものだったのだろう。横着者だから以前は電動を使っていたが隅の方がうまくいかないので今は使っていない。右の奥歯が前から硬いのを噛むと痛かった。最近暖かくなったら飲み物が冷たい物もあったりすると左の奥歯がしみる。それに硬いものを噛むと痛むことがある。両方の奥歯が硬いのを噛むと痛いので少し噛んでは飲み込んでしまう。誠に不便なので歯医者に行ったら噛み合わせが悪いとの事で少し削ってくれたらよくなった。しかしあの削る時の感覚は何とも嫌なものである。またオオゴトかなと思ったがただ削るだけよかったし、こんなに調子よくなるとは感謝である。

若い時は極当然のように思っていたことが体がガタついて来るとこれが恵みである事がわかる。歳をとらないとわからない恵みもある。肉体の機能のすばらしさを見ると創造主のすばらしさを覚える。それ以上に愛でる心が創られていることもすばらしい。こっちの方がすばらしいかも。

2013年4月1日月曜日

諏訪湖一周

お天気もよく暖かかったのでゆっくりのんびりと自転車で諏訪湖一周にチャレンジした。今年はもう駄目かなと思っていたがなんとなく行けそうなので走る。最初風が冷たく感じたがそのうちそれほどでもなく何時もの調子で適当に走る。下諏訪の街もといっても湖畔端に近いところであるが何時もは通らないところを右を見て左を見て家々を眺め、空き地や家庭菜園を覗きながら走る。下諏訪と諏訪の境近辺は狭いので湖畔端を走り、ベニヤの手前から中に入る。宮坂醸造の前を通り、川づたいに走ると綺麗ではない川に魚が群れをなして泳いでいる。珍しいので自転車を停めて少し眺めていた。10センチ位かな浅いからこのくらいが精々か。適当に走っていたら湖から大分離れたようだ。山に囲まれている盆地、道に迷うことはない。豊田より大分先に行ってしまったが戻るようにしてガラスの里に向かう。そこでトイレにより、隣のJAで野菜を少し買って、湖畔端の側道ではなく旧道の道を走る。

何時もだと釜口水門から右折するのだが真っ直ぐに走って、餅屋さんを覗くがスッカリ片付いている。ここは餅100%の饅頭なので午後になるともう固くなるから午前中になくなってしまう。だから期待していなかったが普通の餅はあるかなと思ったがもうなかった。更に先に進んで家内の実家の先まで行く、隠居屋といっている所ともう一軒の廃屋のようになっているのを覗いて見た。普段は鬱蒼と蔦が絡まっているから家が見えないが今は枯れているのでまさに廃屋そのものが丸見えである。そのうち解体しないといけないととは思っているが色々と難しい。

天竜川を渡って駅に向かう。駅前に行かず脇の道を走って街の中心地へとペタルをこぐ、この辺からは何時も通る道道である。川を渡ってから少しづつ高くなっているから大丈夫かなと心配したがそれほどでもない。裏を通りながら岡工の裏から脇を通って舗装路でない農道のようなところを最近通っているので今日も然り、ここは畑でなだらかな坂になっている。ここは道から道へは100m位あるから道から2-3軒は家があるがその奥は畑になっている。中が畑で宅地造成なんてどうするのだろう。30キロ近くも走ったが思ったより足が疲れない。スクワットが効いたのか、しかしその代わりにヘルニヤをやってから左の股関節がおかしくなるようになった。まだまだ行けそう。

2013年3月29日金曜日

戸の外に立って叩く

教会の戸を外から叩いているイエス様、ラオデキヤの教会がどのような教会であるかが何となくわかる。叱責のみのサルデスとラオデキヤの教会、ラオデキヤは現代の教会を示しているとよくいわれ、駄目な教会、駄目な信者の代表のように言われる。確かにサルは富んではいないが後は該当するから耳が痛い。それに「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」(黙 3:15-16)と言われると更に身が縮んでしまう。

「冷たいか熱いか」は信仰的にと教えられてきた。サルは熱くはなれないがさりとて冷たくにもなれない。どっちつかずのなまぬるさが好きではないが居心地が良いのでつい、なまぬるい湯に浸かって居心地の良さに煮沸されても出れないでしまったかえるを連想してしまう。フランシスコ会聖書研究所の聖書では「冷たいか熱いかの対比ではなく、冷たいか熱いかとなまぬるいの対比であると、「当時ラオデキヤの近くには水源地がなく、遠方からひかれてくる水が、生ぬるかったので、」と書いている。確かに言われてみれば暑い時には冷たい水を寒い時には熱いお湯が人を癒してくれる。信仰的にとも頷けるがそうすると水の効能が偏ってしまう。或いは水そのものに触れてはいないのだろうか。

教会の中心である主が教会の外にいるということが如何に異常であるかがわかる。しかし個人として見ると結構あるのではないかなと個人的には思っている。日常の出来事が時には第一になり、結構、主は隅っこに置かれていたり、下手すると外に追い出している現実がある。人間である以上、プライドがある以上、大なり小なり避けて通れない。たとえ忠実に仕えている牧師や集会の責任者であっても本当に信者に仕えられるかと問いば否であろう。神ではないから求めることは酷である。

暑い時の冷たい水、寒い時の熱いお湯、どちらも心地よいものであるが得てして熱い時に熱い湯、寒い時に冷たい水、傷口に塩という知恵のない事をしまいがちになる。これは知恵のない故に許されるとしても主が我が心の扉の戸を叩いている時があることを意識しなければならないなぁと思っている。主はこんな教会(個人)でも戸を開けさいすれば中に入ってきて共に食事をしてくださる。しかし、戸を叩いているのに気がつかないという問題だある。精々心の扉を薄くしてすぐ気がつくようにしないと。




2013年3月28日木曜日

東山魁夷館へ

馬籠から一日置いて、前に来た時に行きたいと言われたがその時は丁度休館日だったので行けず今回になった。長野は大きいので南の飯田も北の長野も100キロもある。それについ遠くまで行くからあそこにここにと間口を広げてしまう。それ故ひたすら走るという事になる。今回も松代の池田満寿夫美術館にもと二つの休館日を避けて選んだのである。しかし、松代は今は長野市に編入しているから近いので助かる。

長野ICで下りて慣れないナビで右に左にと善光寺を回りこむように美術館に着く、日本画はあまり好きでなく、食わず嫌いなのかもしれないが東山魁夷も然りである。しかし、今回観てよかった。元々風景画が好きなのでヨーロッパの風景画が多く展示され良い印象を受けた。来れはあくまでも自分好みで絵の素養があっての印象ではない。あくまでも自分の好みである。それと中学生(旧制)の時に描いた自画像に驚いた。自分の基準でいうのもなんだが人の顔を描くというのは結構難しいものである。うまいと思ったがこの後で観た池田満寿夫の絵の中に少女というのがあった。何だこれと思った絵が誰か(忘れた)に褒められてこれがきっかけで画壇に名前が覚えられるようになったような事が説明文の中にあった。(細かい記憶は過去になったが)そんな基準なのである。隣の信濃美術館に寄るが一般の水彩画の県展がやっていたが皆さん素人なのに上手だ。以前今も書いているようだが昔のお客さんで何とか会に所属して発表会を開いている。作品を描くためにヨーロッパまで行っている。そして感心している。そういう意味で小学校の同級生も油絵を描いていて会の発表会に風景画を出していてこれも上手だなぁと何時も思う。今は先生が亡くなられたので会の発表会はなくなったそうだが。

何時か善光寺に行きたいと思っていたのでいいチャンスだった。そして善光寺の隣に信濃美術館があることを地図を見て知る。車を置いて善光寺にと本堂の太い柱、厚い床に圧倒される。地震にも倒れることなく立っている。しかし本堂の中には大勢のお参りの人がいたが線香臭さはいただけない。信者でもないからご利益は勿論ない、期待もしていない。行って意外だったのは坂になっていることである。それにそれほど広くはない。昼は門前の蕎麦屋さんでざる蕎麦を食べる。ここは戸隠の近くだから戸隠蕎麦だったのだろうか。馬籠は色が濃く固くてこちらは白くて柔らかかった。でもどちらも美味しかった。ナビと道路の看板を頼りに松代にと向かう美術館の近くに来たら何も言わなくなった。以前きた事があるのだが全く記憶がなかったが何時も覚えていない家内がナビしてくれて着くことが出来た。池田満寿夫はわからない。ピカソに影響を受けたそうだがなら解るわけがない。完成というか精神構造というか普通の人とは違うものを持っているのだろう。だからあぁいう絵を描けるのかもしれない。不思議な人だ。多才の人のようた。帰りは隣の竹風堂でドラ焼きを買ってお土産とする。勿論自分たちの分も買ってである。

あるいとすぐのところに松代城址があるのでそこを覗く、門と石垣だけの小さな城址である。それでもどこか古を思えださせる。上田城址の方が風情があるように思うが規模も違うか。後帰るだけなので坂城町の公社の風呂に入って帰って来た。HPで見るとよく見えたが何処にでもあるのと同じ様なものだった。来て初日は地元の温泉ロマネットで同じ様なもので悪かったかな、本人は上山田温泉に入りたかったがあそこは銭湯だから安い代わりに石鹸が必要のようなのでやめたが入ってみてもよかったかなと反省している。

高速に入って塩尻北あたりから渋滞していてレッカー車も行く、途中で事故のため松本ICで下ろされた松本市街方向が込んでいたので反対の波田町方面に出る。そこから広域農道に出て安曇野ICに出るつもりだった。しかしその道は渋滞、考える事は皆同じ、地元の車が脇道に入ったのでついて行ったらどうも違うところに行くようだった。適当に走っていたら交差点の手前に案内板が右に梓川SA-ETCとある。右折して走るとすぐ高速道路が見え、まばらだが車が走っている。すぐついてゲートを入るが入ってからややこしい。真っ直ぐ行くと本線に入るようになってSAには入れない。曲がりくねった方に入ればSAには入れたかもしれない。広くないパーキングにトラックにバスが追突している。後で知ったのだがSAの入り口付近で小型の乗用車がガードレールに当たって反対向きになったのを避けるためにトラックがハンドルを切りすぎて横転してしまった。それを避けていた観光バスが後ろから来たトラックに追突されて、ブレーキが利かなくなって側道を走り休憩していたトラックに追突したという次第なのである。一人亡くなっている。重大事故の案内板は嘘ではなかった。梓川SAから入る車は地元の人たちのようである。がらがらの道を走るのは気持ちがいい。安曇野ICから続々車が入ってきた。最初におまけがついた長野道であった。

2013年3月27日水曜日

馬籠へ

先日、息子が奈良井宿に行きたいとの事で2-3日の予定でこちらに来た。そこは割りと近いので私たちがまだ馬籠に行ってないのでいっそ馬籠、妻籠と木曽路を北上して奈良井に行ったらという事で出かけて来た。

中央高速で飯田から更に先の恵那山トンネルを過ぎて中津川ICで降りる。ICの手前の神坂PAに付近の地図の看板があり、その脇に小さな案内板に「馬籠1㎞」とあった。そこは高速バスに乗る人たちの出入り口でもあるようだ。あそこにETCのゲートがあったら馬籠に行くのに楽でいいのに、事実、知人はPAに車を置いて歩いて行ったといっていた。最近はSAにETCゲートがあるのをよく見かける。NEXCO中日本さん考えてくれませんかね。

中津川ICから少し戻るように19号線を走る。2車線のバイパスになっていて車の数もそれほどでもなく走りやすかった。曲がるところを確認しながら少し走る。馬込の看板が見えて右折し県道7号線に入る。それで道なりに行けばいいのだが少し走ると馬籠の看板が目に入ったが行き過ぎてしまい後の車は左折していくのでUターンして山道をカーブしながら上がっていく、集落もあまりなく見えても下のほうにある。どの位走っただろうか少し平坦な道になり集落が見えて、その先の信号に馬籠の字、しかしそのようなものは見えない。更に前の車についていくと大きな建物があり、細い道を入って行くからついて行ったがそこはお寺で墓参りの車だった。20日、春分の日、お彼岸である。戻ってさらに進むとようやく駐車場が見えそこに入ったが案内図は更に先にもありそこまで行って停める。

初めての馬籠、結構な坂になっている。一番上の見晴台から下に下りていく、似たようなお店があり、違うのは蕎麦屋さんが何軒かがあるくらいである。せんべいと豆とだけのお店があってつい中に入って買ってしまったが家族に何処にもあるよと言われた。五平餅のような団子もあり、食べながら歩く、観光地だが特別興味を持たせるようなものはあまりない。小さな集落の端にある宿、こんなところでなんでと思った。妻籠から歩いたらここになったのだろうか。どう表現したらよいかここは岐阜県だが飯田から入った遠山郷もそうだが山の上に集落がある。今でこそ車があり飯田まで長いトンネルがあって簡単に行ける。でも昔は下に下りるまで結構あるのにどうして生活したのだろう。その下といっても飯田からは隠れ里のような所である。昔は炭なんかを焼いていたのだろうか。そう言えばいつ何処でか忘れたが昔は炭を焼くのに何日も山にこもって焼いたと聞いた。何日か月か忘れたが田舎でも奥に入った集落では炭を焼いていた事を思い出した。当時は貴重なものだった。そんなんで生計を立てていたのかなと思うと同時に長野県はそんなところが多いので落ち武者なんかの格好の場所だなぁと思った。

馬籠は長野県に属していたが生活圏が岐阜県の中津川市にあるので今は岐阜県中津川市馬籠となっている。確かに中津川から山に入る感じで、妻籠に行くには峠を越えて行く、中津川は下に下りるだけでいいから大分違う。馬籠を後に妻籠に向かったが結構走る。信号があるところに出たらそのところが妻籠だった。ここは更に小さい観光地である。駐車場は整備されている。ゆっくり歩いて以前来たときより店が閉まっているなぁと思った。ここで生計を立てるのは大変だろうなとそんなことを思ってしまった。そこをそこそこに北上して、「目覚めの床」に案内し、奈良井と向かう既に雨が降ってきて、私たちは車の中で息子だけは傘を差して奈良井宿を歩く、降っていなければマリア観音があるのでそれを見てと思ったがもうそんな元気はないし、また何かの機会にくる事があるだろうと先に進む。ケアハウスに知人を訪ねて帰って来た。250キロの旅であった。

2013年3月18日月曜日

えんだくり

この名前は栗のイガが開いた状態が笑っているように見えるので「笑んだ栗」ということらしい。これはこの間N伝道者と家内と家内の姉が尋ねた家の娘さんが書いた本の題名なのである。ⅠとⅡがあってそれを頂いてきた。読みかけ中の本があったり、読むのが遅いこともありようやく読み終えた。

重い脳性小児マヒの故に書く事と話すことが上手くできない。生活の不便さを思うと大変だろうにと思うが文面からはあまり窺い知れない。それを逆手は大袈裟かな、しかし文章からそれを感じるから自然に読める。書き手の人ととなりを感じさせる。


第一章 わがままなからだ

アテトーゼという妙なヤツ

 アテトーゼ、という言葉をご存知ですか。
 脳性マヒの特徴の一つで、無意識に出てしまう動作のことです。
 アテトーゼという妙なヤツはとてもわがままで、ところかまわず現れるので、本当に困ってしまいます。医学的なことはよくわかりませんが、私たち脳性マヒ者のからだはヤツらにとって、よほど住み心地がよいとみえ、みんな居座れています。
 どうせ一生アテトーゼという気ままなヤツに居候されるのならば、仲よくつき合っていきたいと思うのです。
 特に緊張したり「これはこぼしてはいけない」と意識したときなどに、なんの前触れもなくアテトーゼは勝手に突然襲いかかってきます。すると、こちらも慌てて、手に持っているものを放り投げてしまいます。
 また、興奮するとアテトーゼというヤツは、とても喜んで活発に動き始めるので、思わぬ動作になってしまい、このちらはたまったものではありません。
 ただ、アテトーゼというヤドカリも、本能的に自分の住いを守ることだけは知っているらしく、決して借宿に向けてはものを投げません。ただし、借宿以外には、どちらの方向へ投げているのか、投げたものがどちらの方向に飛んでいくのかは、投げた本人すら、まったくわかりません。
 つまり、もし、その行き先不明の物体によって、他人が被害を被ったとしても、責任は取りかねるというわけです。一応、本人も、アテトーゼを出さないために、からだ中に力を入れて、防御の姿勢で作業をしているつもりでありますが、包丁など危険なものを使っているときには、私からできるだけ離れていてもらいたいものです。
 後略
こんな次第なのです。

2013年3月16日土曜日

ほんの少し前までは寒い日が続いていたのにあっという間に暖かくなってきた。信州の地も寒い所為か一気に春がやって来る。諏訪湖の写真はまだ冬景色だがそのうち替えないとと思っている。

子供の頃の冬の季節は家の前の県道(今は国道)は雪で車は通れなかった。朝雪が積もっていると隣の家までカンジキで雪踏みをするのは子供の役目、我が家は一軒やだから他の家の何倍もある。既に足跡があるときは大体曲がりくねってることが多い。それとは関係なく往復してカンジキで4列くらいの道にして橇が通れるようにする。真っ直ぐ踏み固められた道を見るとなんか達成感が湧いて気持ちがよかった。2月に雪が降らなくなると日中太陽の熱で融けた雪がざら目のようになって夜中の寒さで凍って歩ける。お陰で朝学校に行く時は田んぼの中を歩くことが出来る。大分時間が短縮するからうれしかった。中学校が小高い丘にあって2月の雪が凍る時期は裏山が格好の遊び場となる。2年の時の教室は本校舎から体育館を挟んであったからうるさくない先生だと昼休みに男子のほとんどはワイワイ云いながら滑っていた。あの頃は時計を持っているのは先生くらいで生徒はもっていないことをいいことに昼休みが過ぎているのを知りながら時間がわからなかったととぼけて遊んでいたことが懐かしく思い出す。しかし、担任ではなく他の先生にピンタを貰ったのは勿論だが。物がないときはこういう言い訳が堂々とできる。文明の利器は生きることを窮屈にしているようだ。それと春が近づいてくるとバスが通れるように除雪車が来る。白一面の世界から道路だけが黒い土を覗かせる。固くなった雪でも土の固さには叶わない。土がこんなに固いのかと実感するときでもある。それと雪が融けてくると道路によく小銭や万年筆が顔を出す。今年はどんなのが落ちているだろうとこれも楽しみだがあまりいい物は落ちていない。それと2月になるとピタッと雪が降らなくなる。そうすると寒いがその代わり満天の星が輝いて月と星の輝きが白い雪に反射して真昼のようになるのも寒さの中での楽しみである。

信州諏訪は雪がなくていいけれどもその分寒い。諏訪湖も凍っても渡れないので「しみわたる」ということができないのでつまらない。今年は雪も多く除雪した雪が家の脇や道路の脇に置いているが陽が差しても日差しが弱くちっとも融けなかった。しかし暖かくなったら蹴飛ばしてもびくともしない凍った雪があっといいうまに小さくなっていく様を見ているとすごいなぁと思う。地震にしろ太陽の日差しにしろ持っているエネルギーの大きさに驚く、人間が自然をコントロールしようとしてから自然界はおかしくなったのではないだろか。どちらにしろ春の太陽の恵みを改めて感じる。嬉しい春だ。桜が咲いて来たら又春の恵みを思うだろう。パソコンもコタツから机に戻して、足の冷たさも耐えられるくらいになって今打っている。後は懐だがこれは当分というより地上の営みが終わるまで終生の友のように付き合っていくだろう。できれば縁を切りたいが惚れられた弱さ邪険にもできない。否、サルがシツッコク付き纏っているのかな、この方が正しいかも。

2013年3月9日土曜日

一枚のプリント ひとりの宣教師のこと (最後)

その後、ターナーさんはチョクチョク我が家へやって来る。戦友の林さんや柳沢さん(何れも戦友、病臥中)も見舞ってくれた。林さんはキリスト教信者になった。
そして彼は私に目を輝かせてキリストを語ってくれる。絶対者を・神を想定する必要を認め乍らーー、
私にはまだ釈然としないものがある。
私は素朴な質問をくり返す。
ーー神とは何か。
ーー原罪とは何か。
ーーキリストでも 釈迦でも どちらでもよいではないか。
最近 私は肢体不自由児の質問を代弁した。
ーー神が 愛ならば
ーー神が 全能ならば
ーー神が 公平な審判者ならば
   何故私だけが歩けないのか
   手が動かないのか
   物が云えないのか
   何故 聞こえないのか
ーー私達に 罪はあるのだろうか
ーー私達は 生まれてきただけである
ーー何もしない 悪いこともしない だのに何故
   私達だけが苦しまねばならないのか
   何故?。
彼は色々云ったがよくわからない。そのうち英文で解答しようと約束した。
 彼は近いうち沼田から移動すると云う。信州の方へ来たいとも云った。峨々たる八ヶ岳屋アルプスの風物も気に入ったらしい。何故にと聞いたら、「神の啓示(リノベレーション)である。」と云う。
沼田では既に後継者が出来た、私がやるべき努めは一応終わった。地の塩になる為に、新しい土地へ行かねばならぬと云う。
 彼は何処に行くのであるか。ーー否々、我々自体何処へ行きつつあるのであろうか。
核と自動車と物価に脅(おびや)かされ、低級なアメリカ文化に汚染され、次第に経済的野獣と化しつつーー。
 かくの如くにして、我々自体いかなる手によって、果たして何処へ導かれつつあるのであろうか。
(昭和四十四年九月八日)


一枚のプリント ひとりの宣教師のこと (続々)

夕暮れ近く、尚も俘虜の員数のことで云い合っている副官と私をせきたてて、収容所長たる東海林部隊の大尉は、歓送迎会を開催した。昭和十七年春、ジャワ島タンジョンプリオク第一俘虜収容所の一室である。
その日、山本中尉と私は、収容所引継ぎのために先発として、バタビアの伊原兵站司令部よりやって来たのであった。
会する者は、収容所長の大尉以下幹部数名及び山本中尉と私、これに俘虜の幹部佐官級の英人数名計十五名位。
テーブルには押収のビールを林立させ、手製の料理を並べたてて、大尉の挨拶、乾杯で宴会は始まった。じっとしていても汗が滲み出るような南国の夜である。ビールが五臓六腑に沁み渡る。飢えていた俘虜連中は、殊に嬉しそうにグィッグィッと飲み乾す。
忽ちのうちに大さわぎとなった。日本軍が、「万朶の桜か襟の色」と軍歌をどなれば、英軍も亦歌う。
チッベラリーだけはわかったが、あとは全然わからない。手拍子よろしく足を踏み鳴らし、テーブルを叩いたり、そのうち酔っ払って勝手にわめき散らす。日英語入り乱れてである。彼我酩酊、こうなれば敵も見方もない。日本軍は勝ち続けているが、英軍も、なお最后の勝利は我にありと云って譲らぬーー、が現実はこの収容所でも一人二人と斃死して行く、いつ死ぬのやら、ましていつ帰れるのやら。日本軍は豪州を目指して意気尚旺んであるが、果たしてこれもどうなる事やら。
第一線歴戦の東海林部隊の面々はこれで任務終了。故国への凱旋ときめこんで有頂天である。飲んだり、唄ったり、わめいたり、肩を叩いたり、頬をすり寄せたり、殊に外人は大仰である。
 いい加減酔っ払って、一寸小便に立った。帰ってみると、いつの間にか更紗のサロンも清々しい細腰窈窕たるジャワ美人が二人、大尉の両側に侍っている。大尉は悠然と肘掛け椅子に腰を下ろして… … …
が何とこれは、いつの間にやら上着やズボンは云うに及ばず 褌 まで取り払って、誠に一糸まとわぬ見事なスッパダカになっている。やせて陽にやけた赤銅色の肌は歴戦の後を思わせるが、股間がだらり… … …と珍妙である。殊に美人との対比に於いて。
そのうち大尉は立ち上がってダンスをやろうと云い出した。早速「俺がお手本を示す。」と、私の所に来て相手をしろと云う。私が断ると今度は六尺豊かな英軍中佐をつかまえて始めたものの、まるでぶら下がってるような格好になった。おまけに股間がブラブラする。奇妙ともなんとも云いようがない。英人連中は益々興にのって囃立て乍ら、これも適当にダンスを始める。矢張りお手のものである。えらい騒ぎとなった。
 先程から私の横で、何やら口論していた日本軍の炊事伍長と兵器軍曹が、猛然と取組み合いとなった。潮時を見て何とか伍長を引き離した。私は重要な炊事関係の申し送りが終わっていないのが気にっていた。小男の伍長をせき立てると「よし、これから皆に紹介しよう」と先に立った。可成り酔っている。
真っ暗な収容所の真中に、真四角の奇怪な建物がっている。これをとり巻いて、幾つともない焚火が不気味に焔を上げている。一日中半切れのドラム缶の釜でメシを炊いているのである。かまども半切れのドラム缶である。まだ夕食の配給が終わらぬらしい。ただでさえ暑いのに、この焚火で炊事場の中はむれかえるようだ。
伍長の号令で、炊事要員の俘虜がズラリと一列に並んだ。二十数名、全員パンツ一つである。薄汚い。伍長は交代者として私を紹介した。この時、ターナーさんが登場した。通訳をしてくれたのである。
 さて、お別れの乾杯と云うのであろう。伍長はビールを運び込ませ、各人に一本宛分配した。ところが、飢えているのだから無理もないが、渡し終えるや否やガブリと王冠を噛みあけて、グィッとラッパ飲みする者が幾人か出た。虫の居所が悪かった。伍長の怒声が飛んだ。「バカヤロウ! 飲めとも云わんに!」ツカツカと出て行った伍長は、今渡したばかりのビール瓶を先頭から引手繰ると足下へ叩きつけた。そして次から次へと引手繰っては叩きつけて行った。止めたが聞かばこそ、余程疳にさわったらしい。先程の酒と喧嘩が手伝って荒い。忽ち幾人かが足に負傷してしまった。折角の別れの盃も糠よろこび、何の事やらアッケにとられて情けない顔をして佇んでいる俘虜を尻目に、私を促して伍長は炊事場を出た。「クソッタレメ!。」伍長は何故か腹の虫がおさまらぬらしい。
 翌日、伍長は炊事関係の仕事を申し送ってくれた。スッカリ凱旋気分で、戦争みやげの鰐皮の財布やバンド・ライターなどを見せびらかした。同時に英軍ランス・コーポラル(伍長勤務上等兵)ターナーさんを正式に紹介して、助手とするように推薦した。
その日から彼との付合いが始まった。糧秣兼衛生兼営繕係の私と柳沢上等兵の助手と云うわけである。
彼は開戦時、シンガポールに商社マンとして勤めていたが、急進撃の日本軍に追われて、炎々たる重油タンクの猛火の中をジャワに逃げ、ジャワ陥落と共に日本軍の俘虜となったのであった。英人としては小柄で、人懐こく感じのいい青年で、私どもは彼を大変に重宝した。
 色々な事があった。俘虜三千六百何名の相手は、ベラボウに忙しかった。日の出から日没迄、熱帯の太陽に焼かれ乍ら真っ黒になって約半年一緒に駆け回った。やがて併し交代転進の日が来た。彼は自分のシガレット・ケースに、《○坂》と漢字を彫り込んで贈ってくれた。名残り惜しみつつ、「何処へ行くのか?。」《多分豪州へ、シドニーでラング君(俘虜の一人、医科大学生)のマザーに会ったら彼のことを伝えよう。」
当時の日本軍はまだ勝利の美酒に酔いしれていた。それから三年後には、敗戦で身分が顛倒しようなどとは夢想だにしなかった。まして、生きて故国でターナーさんと再会しようなどとは、誠に神ならぬ身の知る由もなかったのである。これをターナーさんは神の導きであると云う。然りとすれば、かの裸踊りの大尉や、みやげを見せびらかしてはしゃいだ気の短い炊事伍長ら東海林部隊の勇士達も凱旋はおろか、やがてガダルカナルの露と消える運命を辿ったのであるが、これも亦、神の導き給うところであったのであろうか。又かの俘虜達も、泰緬鉄道其他各地の強制労働にかり立てられて、生きて故国の土を踏み得た者は幾人あったのであろうか。神の意志とは果たして何であろうか。(続く)







一枚のプリント ひとりの宣教師のこと (続き)

他人のものを無断で転載するのは著作権?プライバシー?に違反するか分からないが半世紀近くも過ぎており、余りスポットライトを浴びることもなかったように思われるひとりの宣教師のことが書かれているので紹介がてらブラインドタッチの練習を兼ねて本人の了解無しで転載する。

 クオ   バディス
QUO VADIUS (何処へ行くのか)

               ○坂○穂

年賀状が来て、電話がかかってきた。沼田の英人ターナーさんからである。いつの間にかロンドンから帰って来ていたらしい。是非会いたいと云う。
約束の日、彼は我が家にやって来た。ボロ自動車を運転し、細君同伴でーー一寸太ったか。久し振りである。何回目かの久し振りである。戦争中ジャワで会って、戦後は大阪で会って、沼田で会ってーー、あれから何年であろう。
ジャワで会った時、彼は戦時俘虜であった。戦後の大阪では、英国系大会社の幹部社員であった。
苛烈な戦争を超えて、お互いに不思議な再会を喜び合ったものである。昭和二十六年であった。
彼は収容所時代のことを感謝し、お陰でほんとうのキリスト者になる事が出来たと語った。
ーー収容所では、礼拝堂の建設はしたが、ついぞキリストについて語った事はなかったが?
ーーいや、貴方々と交代した朝鮮の義勇軍の中に、鉄本さんと云う人がいて、その人の感化であると云う。その鉄本さんは鉄砲を担ぎ乍ら、賛美歌を唄って歩いた、そして神を説いた。三年以上俘虜生活を続け、終戦も間近い頃、苦しみ抜いた揚句、自らも遂に神を発見したと彼は語った。恩人たる鉄本さんの行方は今も不明であると云う。
昼間は会社勤め、夜は伝道に従事して忙しい。近く結婚すると、美しいフィアンセの写真も見せた。
 沼田で会った時は、既に一切を捨て去り、完全な伝道者になっていた。いかなる教会にも属さない、すべて聖書によると云う。
結婚して家庭を持ち、もう子供が四人もあった。裏の土地を売って、聖書館を建てたいと土地の測量をしていた。昼食はインスタント・ラーメンとクコのお茶だけのお粗末なお食事であった。
その後、英国から手紙が来た。何に行ったのか知らない。じき帰ると云って来たが二年程も英国にいた。そしていつか又沼田へ舞い戻っていたのであった。
積もる話を交わして我が家に一泊し、翌日、案内がてら塩嶺峠まで見送った。晴れて風の強い日であった。八ヶ岳が厳しく、冬の寒空を突き上げていた。松本を経て長野へと、大きく手を振って彼は走り去った。
 バスを待つ間、峠の売店をひやかすと、中風のおやじが、オロチョン族直伝の朝鮮人参液の秘法を話してくれた。おやじも若かりし頃、大興安嶺のどこかをうろついていたらしい。人参液には、彼の青春が秘められているのかもしれない。人間の運命不思議である。ターナーさんは、すべて神の意志であると云う。南方での彼との不思議な邂逅も神の導きであろうか。ーーその夜のことは忘れる事ができない。三十数年昔のあの夜のことを。(続く)


一枚のプリント

昨日、N伝道者が諏訪の知人を訪ねるので家内の姉と家内を誘ってくれた。実はその方は義父の中学時代の同級生で軍隊でも上官として一緒だった。そんな縁で誘ってくれたのだ。100歳になられたとかお元気である。後で知ったのだが新田次郎や元国会議員の林百郎も同級生、弟さんは若くして亡くなられたそうだがともに東大を卒業されたとか教育に熱心な信州諏訪を実感する。今も老舗の味噌屋さんの相談役として頑張っているようである。古い趣のある建物は歴史を実感さてくれる。義兄とは図書館で待っていて終わったら迎えにいくということだったがちっとも連絡がなく結構話し込んでいたらしい。お陰でたけしの対談集を拾い読みし、永六輔の新刊の本を読めてよかった永さんのは途中で終わったので図書館で検索したらわが街図書館にもあるので予約する。貸し出し中だから何時になるやらと思いながらついでに永六輔・加藤登紀子の対談集も予約する。

連絡があり迎えに行くと家内たちは勿論N伝道者、そして奥様が私たちが来るのを待っていた。そこそこに挨拶すると奥から娘さんがショッピングカーを押しながらやってくる。さもしいサルは何かお土産?と思ったが残念、お母さんのステッキを持ってきただけ、気のつく方で優しい方と聞いていたのでそれを実感する。奥様が通りかかった従業員の方に主人はと声をかけたら店の方にいます今出てきますと云い終わらないうちにご主人は味噌のパックを抱えてきる。美味しい味噌を三人に、別の味噌屋さんの500円でてんこ盛りが出来る味噌でも美味しかったのに相当美味しそう。建物の一角に売店があり、喫茶や食事が出来るそうでいつか寄ってみたい。

娘さんが出された本をお土産に頂く、帰ってきて本をめくって拾い読みしたら面白そうなのでそのうち読んだ感想を書こう。一緒にプリントが袋に入っていたので拾い上げたら
 ク オ   バ ディ ス
「QUO VADIUS」(何処え行くのか)の字が飛び込んできた。これはポーランドの作家ヘンリク・シェンキェヴィチの有名な本の題名である。この方が捕虜囚虜所の所長をされていたのだろうかそこにイギリスの捕虜として収容されていたターナーさんが宣教師として日本に来られて交流が始まったようだ。軍隊でのこと義父のことが少し書かれている。半世紀前に書かれたA4、5枚の文章である。読んでみると自分を含め日本がどこに行こうとしているかのその言葉のようである。しかし、キリスト者はこの言葉にドキッとする。いい言葉でもある。

2013年3月8日金曜日

医院で

3ヶ月ごとにお医者さんで高血圧と中性脂肪を下げる薬を貰っている(薬は薬局)。この前は去年の11月の初めだから丁度4ヶ月ぶりである。計算してみると一週間に5.5日しか飲んでいないことになる。朝食後すぐ飲むのだが結構飲み忘れている。以前にお年寄りが毎食後とか幾つもの薬を飲まないといけないのに飲んでないことを聞くが今は良くわかる。自分のことは自分で出来るケアハウスなどでも職員が薬は管理しているようだ。定期的にそして食前食後で飲む薬でもきちんと飲むのは難しい。

今回は血液検査をしたが大体規定値の中に入っている。唯一中性脂肪だけがダントツに数値が高い。薬を飲んでいても駄目なのである。丁度寒い時だったので外に出ることもなく出ても車だから明らかに運動不足、先生にも言われた。暖かくなったらと少し歩き始めるが少し歩くと心臓が痛くなる。10分か15分歩くと落ち着くが去年より今年と歳をとったことを実感させられる。どんどん歳をとり何もできなくなったときに信仰のありようが分かるのだろうなと思わされる。

2013年3月4日月曜日

見つかりました

何時だろう。大分前に何かで検索していてアクセスしたらオャと思った。以前お気に入りに入れていたブログだった。神出鬼没のようなブログだから・・・。教会はイエス様が主であり、主権者であり、絶対者である。教会は意図するしないに関わらず律法学者やパリサイ人の立場に立ちやすい傾向にあると思っている。信徒と牧会者が麗しい関係にあるとすばらしいなぁと思う反面、逆にそこに入れない信徒の疎外感を生む、そこには主を本当の意味で主としていない姿を垣間見る。斜に構えるサルの視点。

2013年3月1日金曜日

春だ~

今日から三月、ここ二三日は暖かい。この間の月曜日はファンヒーターの温度計はLo表示、壁脇の棚の温度計で0.1℃で今冬一番の寒さであった。それを境に段々暖かくなってきている。その前から日も早くなり、暖かさも増してきたのか玄関の凍ったドアが日が当たるとすぐ融けてくる。一月には日が当たってもそんなことはなかったから日差しそのものも強くなったのだろう。布団を干してもそのことを感じる。

昨日は久しぶりに図書館まで歩いた。20分かかるが手袋をはめなくても寒さを感じなかった。図書館を出てから少し歩くつもりで駅の近くの冨士アイスで今川焼を買って(家内が小さい頃からやっているお店、繁盛しているとは云えないがそれなりお客さんが来ている。安くて素朴な味が云い。サルはケーキを目の前にしても耐えられるが和菓子それも餅とアンコを前にしたら耐えることはできない)、丸山橋を渡って、トヨタの販社から左折して天竜町を横切るように歩き、田中小学校から北上して小井川小学校脇を通り、だるま堂に出て家にようやくたどり着く、図書館から丁度一時間最後の方は足がもつれるようになった。それに湖に向かって分からないほどの傾斜だが上る感じが分かってきつかった。帰ったらじっとりと汗をかき、シャワーを浴びる。普段洗面所はファンヒーター入れるのだが入れなくても寒くなかった。寒い時なんか4℃、夕方前ということもあるが格段の差である。三寒四温、これから寒い日があってもそれほど苦にならない。今日忍べは明日は暖かいと思うと苦にならない。春はいい。何となく浮き浮きしてくる。それと殆ど融けなかった雪が大分融けてきた。一昨日は一日家の中だったので昨日午後に出かけようとしたら屋根の雪が氷になって融け落ちていた。氷の塊である。直接あたったら大怪我モン、雪国で屋根の雪が落ちてその雪で亡くなられた方のニュースを聞くがアンナ柔らかな雪でと思っていたが雪の硬い塊になっている。まさに凶器である。これから雪崩の遭難が気になる。気温が上がり雪がどんどん融けてくるのを見るのはうれしい。それと春になると聖歌の652番(聖歌総合版710番)「春に若草が」の歌を歌いたくなる。残念ながら我が集会では「礼拝讃美歌」しか使わない。何時かはと思っているが。

1.原に若草が青く萌え出すと   
  雪解けの水が高く音立てる
    くりかえし 
   私たちも春の喜びを歌おう
   春を創られた神様を歌おう

2.風がやわらかく野原を通ると
  木の枝が揺れてさらさら囁く

3.遠くで家畜の声が聞こえると
  近くで小鳥が何か歌いだす

4.創られたものは春の日を浴びて
  春を創られた神様褒めてる

2013年2月27日水曜日

御言葉による性格判断


2sam 22:26-27
あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、
きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。
    (ps 18:25-26に同じ聖句あり)

2013年2月25日月曜日

ルカ伝15章より

 人は、
1.神を知り、
 a.存在として
  b. 人格として
2.自分を知り、
3自分への.神を知る必要がある。

 ルカ伝15章より、
1節の人たち-必要性を認識していない人たち
2節の人たち-必要性を認識している人たち

 人は迷っている状態であり、失われた状態である。
1.迷い出た羊-いのちの関わりを示している。死に直面している。
2.失われた銀貨-価値を示している。むなしさと直面している。
3.失われた息子-神との関係を失いそして取り戻した。
先週来られたM伝道者の言葉より

出すあてなしのラブレター?

今冬は寒いのかはたまた歳の所為でものぐさになったのかコタツに入っている時間が多くなった。一週間に二日くらいは一歩も外にでないでTVもそれほど見ることもなくPCとにらめっこしたりしている時もある。本を書館で借りたり、アマゾンで買ったのを読んでいる時もある。それに本を読むのが遅いのでそれで時間がつぶれることもある。それと午後にBSか7ch(東京では12ch)で映画をやっているので興味あるのを観るとそれで2時間はつぶれる。しかし古いのが多いから見たいのは少ない。観たいと思うのがあったりすると丁度用があって出かけなければならいなんてことも多々ある。結果的に余り観ない。でも観ると若い時を思い出して懐かしさを覚える。映画を終えると3時から3時半少し間をおくと4時から地元のTV局で「水戸黄門」の再放送をコーヒータイムに合わせて観ている。それほど面白いとは思わないが印籠のワンパターンが年寄り向きなのだろう。若い人には興味が湧かないだろうなと思いながら観ている。打ち切りになるのも納得できる。しかし地方のおじいさんやおばあさんはさびしいだろうなと思っても観ている。結局TVは5-6時間以上観ているのではないだろうか午前中は殆ど観ないがそれでも計算すると結構見ている。これが楽でお金のかからない生活である。これだけだとちょっとわびしい。

今、高血圧と中性脂肪の薬を飲んでいる。お医者さんに運動不足の一言で片付けられている。知り合いの方に毎朝犬の散歩をかねて歩いている人がいる。血圧も中性脂肪も標準なので言われたことに納得している。じゃぁと運動の表を作ってみたものの書き込めないので空欄の連続である。10日経ったらお医者さんに薬を貰いにいかなければならない。その時血をとって検査をするので数値を下げたいために歩こうと思っている。しかし来週は話の当番、準備のために流れそう。否流してしまいそう。いつもこの次にはと思いながら相変わらずで下手するとポーンと数値が上がっている時がある。今回はどうなるか?

そんな日々だったので以前メリル・テニイの新約聖書概観を短くまとめて、福音書対照表も合わせた作った。読んでもわからないかなと思うほど短くして、対照表もどうも時間の流れと違うようなところもある。コタツにPCも置けるしと対照表から始めてみた。3枚を6枚に増やしたが福音書は時間の流れに沿っているが必ずしもそうなってもいない。同じ様な出来事でもそうでもない。その辺参考資料が幾つもあるわけでもないから結構難しい。やっても中途半端になるだろうなと思いながらもやるかとやり始めたがどうなるか。知人の翻訳したのをと思って少しやり始めたけどどういうわけかこちらが気になって始めてしまった。人に見せるほどでもなく、自分でも殆ど見ないだろうなと思いながらやり始めた。そんな時に若い時に歌われていた「出すあてのないラブレター」という歌詞の歌があったなぁと思いだして検索してみたらNHKの「夢であいましょう」で永六輔、中村八大コンビで作られ、デュークエイセスが歌っていた「おさななじみ」の5番目の歌詞であることが分かった。番組と彼らの歌声が半世紀を経てタイムスリップしてよみがえってきた。渥美清さんがまだそれほど売れていなくて「丈夫で長持ち」の自己紹介をしていて何時だったか違う番組でか永六輔さんが彼のことを「丈夫で長持ち」と言いながらセットの脇でよく休んでいたと言っているのが印象に残っていた。そして亡くなられた時の状況を知り、あぁあの時から大変だったんだと改めて渥美さんの芸人としての姿勢に感動したことを思い出している。

5 出すあてなしのラブレター
  書いて何度も読み返し
  あなたのイニシャル何となく
  書いて破いて捨てたっけ

今やり始めたことはまさに「出すあてなしのラブレター」なのである。何度か読み返すかもしれないが淡い恋心ではないが誰かに見せたいという人もいない。家内はもっと他にと冷めた目で見ている。これは主の目かもしれない。もしかしたら何かから逃避しているのかもしれない。でも下手の横好きで自己満足的でもいいかと・・・。

2013年2月13日水曜日

雪のお陰で

昨夜から降っていた雪は朝方には止んでいた。車の屋根から落ちそうになっている雪を見て予報通りの大雪になっていることが分かる。五時過ぎに起きて外に出ると新聞配達の車か底をこするように車輪のあとを残していた。雪は膝近くまであり長靴がぎりぎりのところまであったから多分30センチくらいはあったと思う。後のニュースで分かったことだが諏訪は26センチ他はおしなべて11センチとあったから諏訪地区は特別だったようだ。それにここは塩嶺峠が近いからさらにである。雪かきをしていてスノーパウダーのような雪で軽くて前回よりは楽だったがそれでも丁寧にやることもなく大雑把にやる。年で体が持たないから家の脇と道路までの歩道の分を大雑把にやっただけである。早い時間だったから誰も起きている人はいない。大雑把にやってもそこを丁寧にやる方がいるからそうしているのかもしれない。

少し休んで出かけようとして玄関を出たら雪かきをして出かけた方、やっている最中、これからという方、ようやく7時を過ぎて動き出した感がする。いつもだと車で道路の雪はぐしゃぐしゃになるか路面が出ているのだが今回は雪を踏み固めた上を走っているので変な感じがして少し怖かった。県道に出たら除雪されていたがノロノロ状態、事故があったのかと思われるほど動かない。駅前の西友までは数分で行けるのに20分もかかってしまった。

西友の駐車場は雪だらけでポツポツと車が止まっているが昨夜から止めていたのか雪が山のように積もっている車が多い。家の近くの西友にも数台止まっていたがここは駅前の所為かその比ではなかった。これからか長靴から靴に変えている人もいた。店でオニギリとお茶を買って駐車場前の道路にマイクロバスが来るのを待つ。ここに来る途中で携帯がなったのを思い出して、待つ間携帯を確認すると高速バス会社からだった。中央道が通行止めになっているので中止とのこと、しょうがないかと帰り、帰ってきたらみんな雪かきがされていて雑にやっているところもきれいにしてあった。雑にやってもこうしてくれる方がいるから安心して雑にしている。雪の大部分を処理してあるからサラからやるよりははるかに楽なはずである。手づかずの駐車場の雪かきをして雪かきの作業は終わる。

小渕さんのブログにヘンリーナウエンのシンポが埼玉の宮原にある聖学院大学で行われるとあったので是非と思って応募した。それが今日なのである。久振りの東京、それに以前いた集会の夜の集会にも出られると喜んでいたのに、それと高速バスも初めて、色々と久しぶりの東京を散歩して歩きたいと思っていた。東京はただぶらりと歩くところが沢山ある。華やかな東京ではないがそんな所がある東京が好きである。普通では縁がなかったというところだろうが御心ではなかった。次の機会に期待したい。でもなんで東京に行く道が閉ざされたのだろう。ナウエンも集会にも出られるのにと思ったがそれは我がサイドのこと神は別の考えがあるのだろう。そこが面白い。でも残念でした。


2013年2月9日土曜日

地の塩、世の光

聖書の中に「あなたがたは、地の塩です。・・・あなたがたは、世界(世)の光です」(matt 5:13-15)という言葉ある。あの有名な山上の垂訓の中の一説である。もう垂訓なんて云わないのかな? その後に各々の効能なりが書かれているから熱心なキリスト者は「我は地の塩、世の光にならん」と頑張っている。あるキリスト者は我関せずと我が道を行く、問われても「だから何」と問い返されるのが関の山である。

キリスト者とは「イエスをキリスト」と告白するものであり、更に云えば
  「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、
    次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
   また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」(1cor 15: 3-5
パウロの告白を「我が告白」とする者である。
キリスト者であることも地の塩、世の光であることも働きではなく立場である。塩気をなくしてもキリスト者ではないと云えない。光を失ってもキリスト者でなくなったとは云えない。多くのキリスト者は、「キリスト者=、地の塩=、世の光=こうでなければ」という意識が強いのではないだろうか。だからそれに見合わないとキリスト者であることにX点をしてしまう。サルもそのような捉え方を根底でしているから解らないでもないが考えてみれば主が「あなたがたは、地の塩です。・・・あなたがたは、世界(世)の光です」と云われたことを否定しているといえる。主が語られたことを否定しているということは不遜であるし非信仰的である。それは「ガンバリズム」の成される業であろうか。

この世は定まっている時はない。絶えず変化している。その一点を見て結論付けるのは間違った結論に導く可能性がある。不変なのは「神の言」だけである。
塩気をなくした」と思っても永遠ではない。一過性のものと捉えたい。主が「あなたは「地の塩です。世の光ですと云われた事は不変である。なぜなら自分のうちに塩も光ももっていない。主がそのように宣告し、その源は主御自身のうちにある。そして、
 「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、」matt:12:20
と云われた。我らは芯にすぎない。主が油を注いで燃えるのである。しかし、油のコックは我らの手の内にある(通り良き管として)。暗闇の中に太陽の光は必要ない。ほの暗き光で十分である。
最後に
     いつも喜んでいなさい。
   絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
御霊を消してはなりません。
預言をないがしろにしてはいけません。
しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。
悪はどんな悪でも避けなさい。
平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。
あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。

1thess 5:16-24)